シレジアに連れてきてからというもの、ユリアは泣いてばかりいる。
目の前で兄が母を殺すところを見たのだから、当然だろう。
レヴィンは優しく頭を撫で、哀れな宿命を背負う娘を抱き上げた。
この子の母であるディアドラ皇妃は、どこまでも残酷な女性であったと思う。
自らは息子に殺されることを望み、そしてその息子を殺す責を娘に負わせたのだから。
ユリアを預かると約束した時に、何故かと問うたこともある。
どのみち殺さねばならないのであれば、暗黒神が覚醒する前にユリウスを屠れば良い。何故そうしないのかと。
ディアドラ皇妃は、薄く笑って言った。
セリスの為です。
反逆者の汚名を被せられたシグルドの息子を愛しているから。
ユリウスが暗黒教を興し民意を離れさせ、セリスを王位継承者として担ぎ上げられなければ、あの子は身分や名誉の回復もないままに終生を平民に甘んじて過ごさねばならない。
民心を味方につけ、世を変えるという大義名分を与えて叛乱を起こして貰わねばならない。そしてあの子はユリウスを倒し、アルヴィス様が築いたグランベル帝国をそっくり手中に収める。
それもこれも、あの子が可愛いからですわ。そう皇妃は答えた。
納得できないと、レヴィンは首を振る。ユリウスとユリアも、彼女が腹を痛めて産んだ子ども達だ。その子どもらを殺し合わせることが望みなのだろうか。
ディアドラ皇妃は、髪を振り乱して激昂した。
あなたに何がお分かりになるの。癇癪を起こした子どものように、彼女は叫ぶ。
記憶を失い、政略と謀略の為に利用され、挙句愛した人を無惨に殺されたのです。シグルド様を殺したあの方との子どもなど、可愛いと思ったことは一度もありません。私の愛する子はセリスだけ、セリスだけなのです。
泣き叫びながら、ディアドラ皇妃は笑った。その姿に、レヴィンは哀れみの溜め息をつく。
あぁ、狂ってしまったのだと。
それでも、ユリアにとっては大事な母であったのだろう。お母様と呼んでは泣いている。そして目の前で母を殺されたと言っても、やはりユリウスも良い兄だったのだろう。にいさまはどうかなってしまわれたのですか、と何度もいとけなく訊ねてきた。
この哀れな少女に、レヴィンはかける言葉すらなかった。
返答がないと理解してからは、ユリアはただ一人で渇かぬ涙を流しつづける。
「レヴィン様」
泣きじゃくる少女はレヴィンの肩に自分の額を押しつけ、そして何日かぶりで口を開く。
「私が、悪かったのでしょうか」
その意外な言葉にレヴィンは瞬時驚いたが、何故そう思うと問い返す。
ユリアは、涙で絶え絶えな声を絞り出して語りだした。
「お母様がいつも悲しそうでしたから、ある日私はお花を持っていきました。けれどお母様は泣き止んで下さらなくて、私を打つのです。何度も謝りましたけれど、やめて下さいませんでした。きっと私が、お母様のお嫌いな花を持っていってしまったのでしょう。でも、ユリウスにいさまは私を背に庇って仰いました。私はにいさまと違って物覚えが悪いのに、何故かそのお言葉は一言一句違わず記憶しています。
母上、ユリアに咎はありません。打つなら私をお打ち下さい。あなたの悲しみは、父上とそして私に関することなのでしょう。私をお責めになられるのは構わないが、何の関係もないユリアにまでつらくあたるのはやめて下さい。
そう仰ったのです。
するとお母様はみるみる顔色をお変えになられて、悲鳴をあげられました。何か早口で仰っていたのですけれど、よく聞き取れなくて覚えていません。けれど、にいさまと私に対する呪いの言だったと思います。その日から数日して、にいさまがお母様をお殺しになったのです。
私が……私があの時、お母様にアイリスの花を持っていかなければ、こんなことにはならなかったのではないかと……」
ああそれは。
レヴィンの中で、遠い日の記憶が告げる。
それはきっと、ディアドラ皇妃の琴線に触れたのだろう。
シグルドが彼女に初めて贈った花だったから。
そのことは言わず、母を愛していたかとレヴィンは問う。
ユリアは顔をあげ、紫の眸を震わせて言った。
「はい。お母様も、お父様も、にいさまも、大好きです。なのに、どうして……」
言葉は途切れ、再度ユリアの頬に涙が流れる。どうしてと呟くばかりの絶望は、かつてこの子の母も体験したことがあるに違いなかった。
ディアドラ皇妃は、それを恨みに還元して死んだ。この子はけして、この感情を憎しみへと変えはしないだろう。変えないまま、行き場のない悲しみにその身を喰われてしまうかもしれない。自身の消滅すら、望むかもしれない。
この子は何も悪くなどないのに。そんなのは、あまりに可哀想だ。
「ユリア、」
レヴィンは抱きしめたユリアの後頭部に手をかざし、呪文を唱える。ひとの記憶を奪い消してしまう、マンフロイが使った禁呪である。
「少し眠れ。もう、悲しくないようにな」
「レヴィン、様……」
ユリアはレヴィンの肩に頬をすり寄せ、睡魔にゆっくりと意識を奪われていく。
「レヴィン様は、あたたかいです……お父様、みたい……」
かくり、とユリアの意識が落ちた。
「父、か……」
ふいに、捨てた妻子を思い出す。可愛い子ども達に父と呼ばれた時は、やはり嬉しかったものだ。その記憶をユリアから奪ってしまったのは心が痛むけれど、これからは自分が、本当の家族ほどではなくとも共に居ようとレヴィンは思う。
腕の中で安らかな寝息をたてている少女は、やがてこの手を血で濡らしまた泣くのだろうか。
けれど、せめて。
この少女が目覚めた時には、少しでもこの世界が明るく見えていればいい。
そう、願った。
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