出会った時から、けして健康的とはいえない身体だった。
日が照れば眩暈を起こし、風が吹けばよろめき、雨が降れば震えていた。
だから、日が照れば庇になり、風が吹けば衝立になり、雨が降れば傘になった。
そのたびに、ありがとうございますと笑ってくれる彼女の笑顔が、
もう一度、見たかった。
「今日は、少し元気です」
寝台の上で半身を起こしたユリアは、公務の僅かな合間を縫って様子を見に来るセリスに笑顔を見せる。
「そう、良かった」
けれどそれは、昔のような笑顔ではない。ただ唇の端を持ち上げるだけの動作。
その白い頬も紫の眸も、笑ってはいない。生命の色すら感じられない。まるで作り物のようだ。
セリスが差し出した花束を、ユリアは抱きしめて良い香りだと呟く。
赤い花がユリアの中で、唯一生気を放っている。そんなふうに見えた。
「綺麗ですね、とても。お父様やにいさまの髪みたい」
びくりと、セリスの手が動く。右手に、聖剣で皇帝を屠った時の感触が甦った。
ユリアはもうセリスの方をちらとも見ず、花びらをちぎり始める。
びりびりと、赤い花びらを毟り取る指だけが規則的に動き、はらはらと舞わせてはまた毟る。白い羽毛布団に散った花びらは、まるで血のようだった。
ふふ、とユリアの唇から声が聞こえる。
「赤い色は好きです。……私の中に流れる血も、赤いのかしら」
くるりと手首を返し、浮き出る静脈の色に彼女は溜め息を吐く。大きく開けた窓から風が吹き込み、散らばった花びらを舞い上がらせた。頭上を舞う赤にユリアは懐かしそうに手を差し伸べ、そして遠くを見つめる目をしたまま言った。
「陛下……親愛なる国王陛下」
膝のあたりに置いたままになっているユリアの左手を、セリスは返事の代わりにそっと握る。血の通わないような、ぞっとするほどの冷たさだった。
空に差し出した右手に、花びらが一枚降ってくる。白い手に目の痛くなるような鮮やかさで映える赤さに、ユリアは嬉しそうにそっと笑う。
「私が死んだら、かえしてくださいね」
かえしてください。かえしてください。
ユリアの泣き声がセリスの耳に甦り、不意に泣きたくなるほどの後悔が襲ってくる。
「きみは、あの時も同じことを言っていたね」
「ふふ、意味は違いますけれど」
虚ろに視線を返すユリアを眺めながら、セリスは終戦直後のことを思い出した。
終戦後、ユリアは教会に篭り、静かに泣きながらただひとつのことを呟いていた。
「かえしてください。かえしてください」
何を、と訊くのはあまりに愚かだと思った。セリスにできたことは、ただ彼女を強引に部屋へと連れ戻すことだけだった。
「ユリア、部屋に戻りなさい。此処は寒いから」
「何処だって、寒いですもの」
首を振るユリアを抱え上げ、その身体の冷たさに驚いたセリスは医者を呼んだ。
診察を終えた医者は、暗い表情でセリスに告げる。
「ユリア様は、もう永くありません」
世界が壊れたのかと思った。それほどの衝撃を身に受けたセリスは、しかし冷静に理由を訊ねる。
「光竜ナーガの書は、ロプトウスと同じく竜を召喚する魔道書でございます。使用には膨大な魔力を消費し、術者への負担も並大抵のものではございません。ユリア様はお小さい頃からお身体が弱くていらっしゃったので、その負担に耐えられなかったのが原因かと……」
医者の言葉が涙で途切れると、セリスの膝が崩れた。何も言うことができず、何も考えられず、ただ聞こえるのは自分の鼓動の音だけだ。
「あぁ、またか」
呆然と虚空を見つめるセリスは、乾いた笑いを転がす。
かえしてください、と。
ユリアが泣きながら、自分を責める夢を何度も見た。
私の家族をかえしてください。
私の幸せをかえしてください。
私の日常をかえしてください。
私を……かえしてください。
セリスさま。
あなたが憎いです。大嫌いです。恨んでいます。
お父様を殺したあなたが。
にいさまを討てと命じたあなたが。
私の大事な人達を殺して、栄光を手に入れたあなたが。
ねぇ、セリスさま。
私を守って下さるのでしょう?
なのに、私はもうすぐ死んでしまうのです。
マンフロイに攫われた時も、あなたは守ってなんて下さらなかった。
罪深いひと。
地獄にでも落ちればいい。
「僕はまた、あの子から奪うのか」
言われたことなど無いはずの声が、耳から離れなかった。
「陛下、」
ユリアに呼びかけられ、意識が引き戻される。
「少し微睡みますので、お引取り願えますでしょうか」
「あ……眠るまで、此処に居てもいいかな?」
「御心のままに」
握ったままだったユリアの左手をそっと放す。
寝台に痩せ細った身体が沈み、目を閉じた彼女の唇が、ゆっくりと動いた。
「最近よく、夢を見るんです」
「夢?」
「えぇ、幼い頃の夢。お父様と、お母様と、にいさまと一緒に居た頃の」
「……戻りたい?」
その言葉に、ユリアは首を振る。
「陛下がいらっしゃいませんもの」
「え?」
「けれど私が死んだら、お会いできなくなりますね」
ふぅと長く息をついたユリアは、薄く瞼を上げた。それは既に黄泉の世界を見ているようにセリスには感じられて、ぎくりと胸が軋む。
「だから、私が死んだら……かえしてください。
海に、還して下さい」
「うみ、に?」
「身体を焼いて、残った骨を海に撒いて下さい。陛下がお母様を見たと仰られた、シアルフィの岬から。そうすれば……」
紫色の眸が、セリスを見据える。風が、蒼い髪を揺らした。
「死んでからもきっと、あなたを思い出せますから」
ぽたぽたと、セリスの眸から涙が落ちる。放した左手を、もう一度強く握り締めた。相変わらず、氷のように冷たい。
「分かった……約束するよ」
「ありがとうございます、セリスさま」
そう言って微笑んだユリアは、昔のままの笑顔だった。
あぁ、死にたくない。
セリスさまのいない世界に、行きたくない。
そう呟いて眠ったユリアが、目を覚ますことはなかった。
黒い部屋に戻る