これでいいのかと、常に疑問はあった。
自分はただ、自己満足のために主君の息子を利用しようとしているのではないかと。
「どうしたの、オイフェ?」
「……何でもありませんよ」
羊を追いながら、肩車をしている彼を見上げる。父親譲りの蒼髪が風になびき、懐かしい色だと思う。女の子のような顔立ちに、蒼い長髪はよく似合っていた。
イザークに来てからというもの、身分を隠しているため騎士として振る舞うことはできない。日がな一日家畜の世話をし、子ども達の世話をしては家事をこなし、くたくたに疲れた体に鞭打ってシャナンと剣の稽古をする。当初は慣れぬ育児や家事に手を焼いていたが、要領が分かってしまえば楽しいものだった。
変化なく穏やかに流れていく日々に、そういえば日常とは毎日の繰り返しであったことを不意に思い出す。主君に付き添って祖国を出てから二年程の間は、戦乱続きで息つく暇もなかったものだ。
緩やかで穏やかな日常に愛着を覚えつつある自分を省み、滑稽なものだと思う。主君の訃報を聞いてからというもの、一人でグランベルに渡ろうとして周囲に何度も止められたというのに。
夜中に単独で出て行こうとした自分に泣きながら縋りつき、エーディン公女は言った。
「あなた一人で行っても無駄死にするだけです。そんなふうに粗末に命を扱って、あの世でシグルド様に何と言い訳なさるおつもりなの。子ども達だって、あなたがいなくなったらどれだけ悲しむかお分かりになって?」
その声を聞き、右手から力が抜けた。握りしめていた剣が床を転がる音が聞こえる。涙のとまらない目に幼い頃から共に居たイザーク王子が映った瞬間、彼は拳を固めて思いきり自分の横面を殴りつけた。
「馬鹿野郎、気持ちはわかるけどまだ早い。皇帝に対抗するには戦力が必要だ。悔しいけど、僕の名を使ったところでイザークの民しか集められない。セリスが成長するのを待て、オイフェ。あいつは、バーハラ皇家の血をひく王位継承者だ。いつかあいつの名のもとに兵を集めて戦うために、今はその準備期間だと考えろ」
「エーディン様……シャナ、ン……」
殴られた頬が熱を帯びて痛み出す。ずっと握りしめていた右手も痛い。涙をとめようとしない目の奥も痛い。頭が片側だけずきずきと痛い。
先刻まで感じなかった痛覚が急激に甦り、意味の無い叫びが口から溢れ出た。けれどその痛みが、怒りに支配されていた思考を冷やしていく。主君の無念を晴らせるならこの命など必要ないと思ったが、そもそも命を捨てた程度で殺せる相手ではない。そんな相手なら、喩え騙し討ちされたとはいえ破れる主君ではなかったのだから。
主君の仇であるアルヴィスは現在皇帝の座につき、法治国家を築こうと数々の政策が打ち出されている。それはけして、自らの利益だけを考える人間にはできない大規模な改革だった。今すぐにでも殺してやりたいその男は、きっと主君を殺しさえしなければ昔と変わらず尊敬できたであろう人物だ。無能のはずがない。彼に任せておけば、きっと世の中は法が行き届き、住みよい世界になるだろう。
けれど彼を殺せば、政局が混沌とするのは明白だった。
主君ならばともかく、自分の政治手腕は彼の足元にも及ばない。現状の政治に不満があればそれを口実にすることもできるが、長きに渡りアズムール王を補佐し辣腕を揮ってきたアルヴィスの才はもはや疑いようがない。
それに、とオイフェは肩の上で元気に笑う主君の忘れ形見を見て思う。レスターが子ども達を率い、デルムッドとスカサハが二人してラクチェに言い負かされ、そしてラナが仲裁に入る。日一日と、大きくなっていく子ども達を見て思う。
子ども達に、世界のことや自身のことを知らせる必要があるのだろうか。
この子達を、血塗られた罪深い復讐へと巻き込んで良いのだろうか。
彼らの日常を奪ってまで、自分の望みを叶えることが重要だろうか。
親のことやバーハラの悲劇と呼ばれる出来事を話せば、きっと子ども達は自分の復讐に同意してくれるだろう。けれど、私怨で復讐した後に残るものは虚無感だけだと、知らぬほどオイフェは子どもではなかった。
もう、復讐などやめてしまおうか。そんな諦念が、しばしば思考の上に降り立つ。
「セリスー、こっち来いよ! みんなで探検に行こう!」
紺色の髪をした年長の少年、レスターが手を振る。肩の上の子どもは大きく頷き、降ろして、と耳元で囁いた。
「今日はあっちの山まで行くわよ!」
黒髪の少女が、飛び跳ねながら輝くような笑顔を見せる。
「だめだよラクチェ、あまり遠くへ行ったら危ないんだから」
今にも駆けだしそうな彼女の手を、温和な顔をした双子の兄がひく。
「スカサハの言う通りだな、もう少し近い所にしよう」
隣にいる金色の髪をした少年が、ませた溜め息をついてみせる。
「何よ、スカサハもデルムッドも弱虫ね」
負けじと言い返す彼女を、夕日色の巻き毛の少女が諌める。
「ラクチェ、そんな言い方はよくないわ。弱虫と危ないことを知ることは違うんだから」
そこに、自分の肩から降りた主君の息子が走っていく。後ろでひとつに結われている髪は、シアルフィブルーと呼ばれる髪色そのままに蒼い。
「みんなー、待ってよ!」
「遅いぞセリス!」
子ども達は身分も歳の差も関係なく、広々とした草原の国で元気に育っている。このまま平和な日々が続くのであれば、それを享受して生きるのもまた一つの選択肢であろう。
それに自分が復讐をやめてしまっても、きっと主君は許してくれる。誰よりも騎士らしくあった彼は、復讐という言葉を何より嫌っていた。
『騎士である以上、私は誰かの命を奪う。そしてそれは常に、奪われる立場であるということだ。そこに感情など差し挟んではいけない』
いつか、そう聞いたことがある。まるでこうなることを見越していたかのように、主君は何処か遠いところを見るような目で言っていた。
同じ言葉をシアルフィの忠臣達も口にし、その後に必ずこの科白を付け加えた。
『俺達が死ぬのは、シグルド様をお守りしてからだ』
ノイッシュは真面目に、アレクは冗談めかして、アーダンは優しく微笑みながらそう言っていた。そんな彼らは、主君の死した今はもう生きてはいないだろう。禁呪の炎が降る中剣を振るい、最期まで主君のために戦って天に召されたのだろう。
空を仰ぐ。故郷と違ってこの国の空は、何処までも高く存在しているようだ。この空のずっと上に天上界があるなら、そこは既に思い出となってしまったあの日のシアルフィがあるのだろうか。
バイロン卿と、自分が忠誠を誓った主君シグルドと、シアルフィの騎士達。主君の妹であるエスリンは、結婚してからもレンスターから馬を駈ってよく遊びに来ていた。その懐かしい人達は、空の上であの日のまま変わらぬ日常を過ごしているのだろうか。
子ども達の笑い声が聞こえる。彼らは光の中を、その恩恵を知ることなく無心に進んでいる。与えられた幸せを、何の疑問もなく幸せだと思うことすらないほど幸せに生きている。
郷愁と淋しさと、同時に言葉に言い尽くせない感情が駆け巡った。
自分もあんな頃があった。失ってしまったけれど、確かにあったのだ。
「オイフェ」
鈴を転がしたような声が聞こえる。背後に、人の気配がした。
「エーディン様……」
月色の髪がきらきらと輝いている。昔からまるで女神のようだという賛辞を浴びるように受けてきた彼女の美しさは、けれど外見だけではないことはよく知っていた。
エーディンはゆったりと微笑み、自分へと歩み寄る。幼い頃は見上げるばかりだったのに、自分の背は既に彼女を追い越していた。そんなことにも、流れていった時間の重さが圧し掛かる。
「泣いてもいいのですよ? 此処には私しかおりません」
肩に手を乗せられる。幼い頃頭を撫でてくれた時と同じ手の感触に、昔の光景が目の前に浮かびそして消えていく。
「申し訳、ありません」
「いいえ。言って楽になるのなら、いくらでもお言いなさい」
優しい声と手の熱さに、涙がぼろりと零れる。ひとつ落ちたその雫は、風にうねる草原に吸い込まれていった。
「シアルフィに、帰りたい……です」
その言葉にエーディンはそう、とだけ返し、長い睫毛を伏せた。
この子の幸せは、永久に失われてしまったのかもしれないと、エーディンは思う。
彼にとっての幸せは、主君に可愛がられてただ無邪気な子どものままで居られた、あのシアルフィだけだったのではないか。
エーディンはそっとオイフェの肩から手を離し、両手を祈りの形に組む。
「帰りましょう。今ではないけれど、いつかきっと」
見上げた空は何処までも高く、そして蒼かった。
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