ずっと、人の手が怖かった。


 あたしの目の前で、ぱちんと指先に集まっていた火が散る。
「今日は十秒か。うん、昨日より長くなってるじゃない。このまま弛まぬ努力を続けていれば魔法も使えるようになるわよ、きっとたぶん。
 えぇと、三日で十秒ってことは完璧に使えるようになるまでどれくらいかかるのかな。そもそも何分維持できたら使えるってことになるんだっけ。あたし魔法使わないしそのあたり全然わかんないけど、まぁやってやれないことはないわよ、だって……」
「パティさん」
 一人で勝手にぺらぺらと喋っていたあたしの言葉を、コープルが遮る。
「邪魔なんですけど」
 む、かわいくないわね。
 ただいま、コープルは魔道書を使うための練習中である。それも一人で。何て言うんだっけこういうの。そうそう、孤軍奮闘?
 解放軍には魔法のエキスパートなんてたくさんいるんだから、誰かに教えて貰えばいいのに、とあたしは思ってみたりする。何かを極めようとするなら、達人に教えて貰う方が早いし適確だ。エキスパートに習うには初心者すぎると言うなら、我が従姉妹のラナがいる。彼女も、元々はコープルと同じ聖職者だったのだが、実戦の中経験を積んで魔道書も扱えるようになっている。
 ……と、初日に助言らしきものをしたのだが、彼は一向に聞き入れる気配がない。顔に似合わず孤独を好むひとなのだろうか。
「なかなか上達しないみたいだから励ましに来てあげたのに。お姉さんの心遣いが分からないなんて、コープルってばまだまだ子どもね」
「誰がお姉さんですか、同い年のくせに。更に言えば、僕は口から先に生まれたようなひとを姉に持った覚えはありません。そこで益体もないことばかり言うのであれば別の場所へ行って下さい。それとも、」
 ぎろり、と丸い目がこちらを睨んでくる。涼やかな黄緑色の目は、目つきを鋭くしただけでかなり凄みを増していた。
「僕の失敗を見るのが楽しいんですか?」
 あぁ怖い。この子、おとなしそうに見えて結構言う時は言うのよね。しかもあたしなんかより頭がいいから(この点については、悔しいのだが認めざるを得ない)いつもこちらが言い負かされてしまう。
 が、しかし。今日こそは負けるわけにはいかない。あたしがただの野次馬でこんな火花を見に来ていると思ったら大間違いなのである。
「えぇ、楽しいわよ。あんたヘタっぴだもの」
「驚いた。パティさんって意外と性格悪いんですね」
「あら、今頃気づいたの? 純真無垢で盗賊稼業はやってられないわよ」
「そうですね、僕の認識が甘かったです。それではごきげんよう」
 と、さっさとコープルは魔道書を片付けて何処かへ行こうとする。あたしは慌てて彼の法衣を掴んだ。
「ちょ、ちょっと、何処行くのよ!」
「パティさんの目の届かないところです。盗賊さんを楽しませる趣味はありませんから」
「待って待って、前言撤回! ちっとも楽しくないから此処で練習していいって!」
「……じゃあどうして此処に来るんですか、楽しくもないのに」
 ふぅとひとつ溜め息をついて、コープルはあたしを見つめる。
 彼は女の子と見間違うほど可愛らしい顔をしているけれど、間近でみるとちゃんと少年の顔をしている。しかもトラキアの盾と言われたハンニバル将軍の息子だけあって、ぴんと張った背筋や引き締まった頬からは、武人の風格さえ覗わせていた。
「それは……」
 チャンスだ。この三日間、言えずにいたことを言うチャンスがやっと巡ってきた。だというのに、あたしの口からは何も言葉が出てこない。言いたいことはたくさんあるのに、情けないほど何も言えない。えぇと、絶体絶命っていうんだっけ? 違ったかな。
 心臓がどくどくとうるさい。イード神殿からバルムンクを盗み出した時だって、こんなに緊張はしなかった。何か言わなきゃ、と思っていたら、
「お、お腹すくんじゃないかな、って……」
 こんな言葉が口から出ていた。
「…………」
 意味がわからない、というふうにコープルは眉を寄せる。
 顔が恥ずかしさで熱くなる。穴があったら入りたい。けれど出してしまった言葉は取り消せない。頑張れ、口から先に生まれたあたし。
「や、だからね、コープルいつも此処で一日中頑張ってるじゃない、ほとんど飲まず食わずで。熱心なのはいいんだけど、さすがにそれじゃ体力もたないと思うのよ。育ち盛りだし、しっかり食べた方がいいかな、って。だから、もしよかったらお弁当とか作ってこようかと思ったんだけど、嫌いなものとかあると困るし……」
 あぁすごい。自分が生まれた時のことなんてさっぱり記憶にないけど、あたし本当に口から先に生まれたのかも。出任せもここまで言えるとは正直思わなかった。
 コープルはというと、さっきまでの敵意が消え、呆気にとられた表情をしている。
「パティさんが、お弁当を作ってくれるんですか……僕に?」
「う、うん。あ、でもいやならいいわよ。あたしの作ったものなんて食べたくないだろうし……」
「そんなこと言ってませんけど」
 ぷい、とあたしから視線を逸らした。心なしか頬がうっすら赤くなっているように見える。あら、なんか可愛い表情見ちゃったかも。
「じゃあ、明日から作ってくるね」
 こうして、あたしは堂々とコープルの練習場に来る口実を作ることに成功した。


 まだ小さい時、デイジーの見よう見まねで初めて盗みを働いた。塀を登り、庭の木に飛びうつり、ベランダから鍵を開けて容易く侵入できた。化粧の匂いがする一室に忍び込むと。無造作に装飾品に加工された宝石類が並んでいた。
 へへ、ビンゴ。
 これだけあれば、孤児院の子ども達が数ヶ月は食べていくものに困らないだろう。初めての盗みを成功させれば、デイジーだってきっと褒めてくれる。兄さんやアサエロはいつも通り渋い顔をするだろうけれど、これであたしも役に立てるってことが証明できる。
 嬉しくなって宝石を袋に詰め込んでいたあたしは、周りに注意を配ることをすっかり忘れていた。
「泥棒!」
 背後で、女の人の悲鳴があがる。
 おっと、やばい。
 あたしはその人を突き飛ばして一目散に逃げ出した。
 ちらりと振り返ると、悲鳴を聞いて駆けつけた人達があたしを追ってくるのが見えた。
 ふん、捕まえてみなさいよ。
 身のこなしや足の速さには自信があったし、周辺の地形も熟知している。ぼんやりしている金持ちなんかに、簡単には捕まらないと思っていた。
 けれど慢心は、油断を招く。
 そんなこともわからないくらい、子どもだったのだ。


「コープル」
 呼びかけると、彼は視線だけをこちらに投げる。慣れた来訪者には社交辞令も不要だろう。
 休憩中なのだろうか、座り込む彼の前には、ぱちぱちと焚き火が燃えている。
「火を焚くにはまだ暑いんじゃない?」
 そう感想を述べると、コープルは呆れたように顔を顰める。
「……そんな酔狂なことしませんよ。ようやく炎が使えたから、手近な枯れ草を燃やしてみたんです」
「えぇっ! 昨日は蟻くらいの火花だったのに!?」
「帰ってください」
 しまった、つい本音が。だって昨日までの三日間はほぼ進歩がなかったのに、今日は焚き火になるくらい大きな炎が出せたなんて驚きだろう。
 相変わらずコープルの睨みは怖い。
 だがしかし、今日のパティちゃんには秘密兵器がある。
「ふーん、これを食べてもそんなことが言えるかしら?」
 目の前でお弁当の包みをゆらゆらと振る。言い争いになる前に、あたしはコープルの膝に包みを置いた。すると、コープルの表情がふと緩む。
「食べ物に罪はないですし、いただきます」
 包みを開いて、コープルはお弁当を食べ始める。この地方の料理はよく知らないけど、新鮮な素材をマンスター特産のスパイスで仕上げたお弁当は自信作だ。口に合わないなんて言ったら承知しない。
 一口咀嚼し、嚥下したコープルが顔を上げる。彼はにっこりと笑った。
「美味しいです、すっごく。お料理上手なんですね」
 思わず、息が止まるかと思った。女の子と見間違うほど可愛い顔の彼は、笑うともっと可愛かった。昔、絵本で見た天使みたい。
「そ、そう……ありがと」
 どんな皮肉を言われるかとこっそり身構えていたあたしは、直球の賛辞に不覚にも照れてしまった。
「お礼に、これあげます」
 そう言って彼が差し出したものを見た瞬間、あたしは思わず息を呑む。
「……ど、して」
「欲しかったんでしょう?」
 それは、なんてことはない鉛筆描きの絵。
 カパトギア城の一室に飾ってあったこの絵の前、あたしはずっと立ち尽くしていた。
 壇上の老将軍に、集まった民衆が両手をあげて拍手をしている絵。
 たくさんの人の手が、心からその将軍を褒め称えていることが、絵からも窺い知れる。
 あぁ、こんなに。
 人の手は、こんなにもあたたかい感情を表現することができるのだと思った。
「あれ、パティさん?」
 あたしはずっと、人の手が怖かった。
 最初の盗みに失敗したあの時、デイジーが助けてくれなかったら、あたしは殺されていただろう。
 たくさん叱られて、泣きながら眠りについたあたしは、怖い夢に泣きながら目を覚ました。何度も何度も、たくさんの手が迫ってくる夢を繰り返し見た。手がとても怖くて、一時期は自分の手すら見られなかった。
 でも、この絵の手は怖くなかった。とても、やさしい気持ちになれたのだ。
「どうしたんですか、パティさん」
「なんでもない、嬉し泣きよ」
 やっとそう言い返せた声は、みっともなく震えていた。泣くつもりなんてなかったのに、カッコ悪い。けれど、流れる涙は止まりそうにない。
「そうですか。そんなに喜んで頂けると、描いた甲斐があったというものです」
「えっ! コープルが描いたの!?」
 意外な特技発見。思わず涙目で彼を見ると、僕が絵を描いたら変ですか、と言い返される。別に変ではないけれど、コープルにそんな芸術的センスがあるなんて、今まで考えもしなかった。
 まさに何とかの霹靂。確か青天、だったかな?

「ねぇ、また、描いてくれる?」
 そう問うと、コープルは笑って言った。
「えぇ、お弁当一食分で手を打ちましょう」


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