怖い夢を見ました。
黒い竜に、食べられる夢。
何度も見るのです。
何度も何度も、私は食べられるのです。
怖くて怖くて、泣きながら目を覚まします。
「ユリア、どうしたの?」
すると必ず、ユリウスにいさまが傍に居て下さいます。
にいさまのお顔を見れば、怖い気持ちはすぐに吹き飛んでしまいます。
「怖い夢を見たのです」
けれど、まだ私の手は震えています。
「大丈夫だよ」
にいさまはそう言って、私の手を握ってくださいます。
「僕が居るから、大丈夫。僕が、怖いものからユリアを守ってあげるよ」
あたたかいにいさまの手。お優しいにいさまの笑顔。
それだけで私は、安心して眠ることができました。
「僕がずっと、ユリアを守るよ。お兄ちゃんだもの」
にいさまの笑顔と、両親と、あたたかい日だまりの中に、私はいました。
それは確かに、幸せだったのです。
いずれ崩れてしまう未来が待っていようとも、確かに幸せな時間だったのです。
それなのに。
「ねぇ、ユリア」
にいさまの額に、赤く光る印が見えます。とぐろを巻く黒い竜が見えます。
「僕を、殺すの?」
にたりと笑うにいさまは、昔のように微笑んではくださらない。
これは違う。これは、暗黒神ロプトウス。私のにいさまではない。
「同じだよ、ユリア」
たとえこの意識が表層に昇っていなくても、身体を支配されているといっても、僕は此処にしか居ないんだ。
きみが、殺すのは僕ではない、暗黒神だと幾ら言ったって、それは詭弁だよ。
同じことだ。
暗黒神を殺すには、僕ごと殺すしかない。切り離す方法なんて何処にもありはしない。
あぁけれど、探せばあったのかもしれないよ?
その努力もせずに、きみは僕ごと暗黒神を殺そうとしたし、実際そうした。
何故だか教えてあげようか?
その方が、君のもうひとりの兄上……セリスにとって好都合だったからだよ。
あぁ、そんな顔をしないでくれ。僕は責めているわけではないんだ。むしろ、褒めてあげたいくらいだよ。
あんな甘ちゃんだった僕の妹が、情を切り離した判断ができるなんてね。
そう。セリスが王になる為には、旧時代の皇家はいない方がいい。
旧皇家の血筋は、叛乱を起こすには恰好の材料だ。セリス自身も、そうやって祭り上げられた一人じゃないか。
そして民衆には、目に見える旧時代の終焉が必要だ。それは、父上であるアルヴィス皇帝と、皇太子であるユリウス……僕自身の首。
そこには、君も含まれるのかな? まぁそれは、兄上殿の裁量に任せよう。
けれどユリア。安心などしない方がいい。
生き残りたいのなら、逆にセリスを殺して自分が王位につくくらいを考えろ。
バーハラ家直系の血は、平和な時代には何の役にも立ちはしないんだ。
むしろ、民衆はもう皇家の力など崇拝しないだろう。何故かは分かるよね。本来このグランベルを統治するはずだった直系の皇帝一家は、民衆を苦しめる暗黒教を流布させ、一握りの実権を持つ者達による恐怖政治を行った。その結果民心を離れさせ、彼らは傍系のセリスを正統な王位継承者だと声高に叫び、そして実際セリス率いる軍に僕らは倒された。血の神聖は、この時点で最早失われたと言っていい。
彼らが褒め称えるのは、これから確実に血よりも力に変化していく。あぁ、この力とは武力という意味ではないよ。今はまだ過渡期だろうけれど、民衆が求めているのは高貴な血ではなく有能な政治家だ。この意味で、まだ戦は終わっていない。今後は各地で下克上が乱発するだろう。
……下克上の意味は知っているかな。うん、ユリアは賢いね。
そう、部下が主君を殺すなど、珍しくもない時代が来る。
なればこそ、僕は君に言おう。最愛の妹に、この言葉を冥土の置き土産として残そう。
決断は迷うな。情に流されるな。
セリスを殺して王になるか、民意のままに殺されるかを選べ。
中庸はない。どちらかが、君がこの世で選ぶべき道だ。
「さようなら、ユリア」
ざらざらと、にいさまの姿が灰となって消えていきます。
私は、あの時のように言葉もないままただ見送りました。
流れる涙を自覚しないまま。
そして、目が覚める。喪った片割れの兄の夢を見るたびに、昔のように泣きながら目を覚ます。
視界に飛び込んでくるのは、兄とは真逆の髪色をした青年。
「陛下……」
「またうなされていたよ、ユリア」
大きな手がそろりと前髪をかきあげ、熱は無いねと呟く。水に浸した布を絞り、首筋の汗を拭ってくれた。
「お忙しいのに、私のことなど気にかけて下さって……」
「なに言ってるの」
心底可笑しそうに笑う彼は、出会った時から変わらない純粋さを垣間見せる。
「ユリアは僕の大事な妹なんだから。心配するのは当たり前だよ」
妹と。
そうあなたが仰るたびに、きっと私は悲しい顔をしている。
そして、
あなたもまた、その単語を私の目を見て言えたためしがない。
兄妹と呼び合いながら、私達はお互いをそのように見たことがない。
私にとって兄とはユリウスただ一人であり、このひとは兄では有り得ない。
このひとにとっても、家族とはティルナノグで苦楽を共にした仲間であり、けして出会って二年の私ではないだろう。
それでも、私達は同じ血を持つ者同士として、家族ごっこを続けている。
そうしなければならない理由が、あった。
民衆が王と称えたセリスの妹として、旧皇家の血筋の皇女としてではなく、新王家の王女として私を据える。
そうすれば、兄が無いと断定した中庸が可能になる日も来るかもしれない。血の神聖は失われつつあるとは言え、セリス王の絶大なる民意は無視できるものではない。
けれど、兄の言ったことが間違っているとは思わなかった。
中庸が実現されなければ、私はいつかあの選択肢を選ばねばならない日が来るだろう。
「疾うに、選んでいるのだけれど」
「え?」
独り言を聞き漏らさないこのひとは、いつだって私のことに気づいてくれた。そのたびに、何かと気遣ってくれる。半分しか血は繋がっていないけれど、その点はユリウスにいさまとよく似ている。
「陛下。民意は、私に死ねと言っておりますか?」
瞬時、彼の顔が強張る。予想以上の反応だ。元々素直すぎるほど素直な彼は、まだまだ諸侯との腹の探り合いはできないだろう。
「……君は、そんなこと気にしなくていいんだよ」
「私自身のことです」
きっぱりと言い放つ私に、目の前の兄はふぅと長く息をついた。
「そうだね……今のところは、まだ多くない」
「でも、確として存在するのですね」
その世論がこれから潰えていくか育っていくかは、この兄の手腕と情勢次第だろう。
そしてこのひとは、然るべき時に私を殺すことができるだろうか。
「では、今のうちに私を殺して下さい」
生き残る気なら、セリスを殺して王の座を奪えと兄は言った。
そんなことを、する必要はない。あの日から私は、そうまでして熱心に生きる気など無いのだ。
勿論、命を粗末にするつもりは毛頭無いし、望まれれば生きることも厭わない。果たせと言われれば、身分に付随する責任も果たそう。
けれど、それ以上のことをする気は無い。
死ねと言われれば、喜んでこの命を差し出せる。
死すれば、家族に会える。もう、旧帝国の生き残りの癖にと後ろ指を指されることも無い。何より、叶うことのない想いに身を焦がされることも無いのだ。
そう思えば死は、そんなに悪いことではないように思えた。
「ユリア、」
優しい、海のような眸がゆらりと揺らめく。激情を抑えている表情だと、私は正しく認識した。
「君は時々、とんでもなく愚かだね」
臥したままの私に、彼が覆い被さる。こつりと額が合わさり、吐息が重なるほど近い位置まで。
「死ぬのは、僕が先だよ。妹が兄より先に死ぬなんて許さない」
そう言って、彼は私の肩に顔を埋める。
「それは、私は殺せないという意味ですか」
「君に殺されるなら本望だけれどね」
私は思わず嘆息し、固く目を閉じる。兄妹の情に託けて、今このひとは王にあるまじきことを口にした。
相手に殺されるなら本望だけれど、相手を殺すのはどうしても厭だと。
私達は、お互いにそう思っている。
君がいなくても生きていけると。
あなたがいなくては生きていけないと。
その違いは、あるけれど。
「陛下……セリス、さま」
まるで、愛を囁く恋人のように色づいた唇で名を呼ぶ。
「なに、ユリア」
まるで、何処にでもいるただの幸せな恋人のように。
何も知らなかった、昔のように。
あの頃に、戻りたかった。
無知を免罪符として、ただこのひとの無事を祈っていたあの頃に戻りたかった。
今を後悔しているわけではないけれど、ただその時は強く思った。
戻りたい、と。
それが、両親や兄や民衆や他の何を否定することとなろうとも。
ただ、何も知らずに笑っていられた頃に戻りたかった。
何も知らずに愛を囁きあった日々が、ただ懐かしかった。
「愛しています、セリスさま」
「ありがとう、愛しているよ」
この兄が私を殺せないのなら、それでもいい。
ただ重荷であるはずの私が彼のためにできることは、きっとこれしかない。
時勢を誤らず、死すべき時に死を選ぼうと。
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