敵襲、と見張りの兵の声が城内に響く。
 槍騎士フィンはニ人の娘を両脇に抱えて走り、或る部屋の戸棚へと押し込めた。
「此処でじっとして、おとなしくしていなさい」
 父と慕う人物の緊迫した表情に、ナンナはこくりと頷く。それと同時に戸が閉められ、視界は黒く塗りつぶされた。
「姉様、怖いよ」
 ジャンヌはナンナの手をかたく握り、ぶるぶると震えている。ナンナより二つばかり幼い彼女は、まだこの城を脅かす存在を知らない。
「大丈夫よ、私がいるから怖くないわ。ね、静かにしていましょう」
 少しでもジャンヌが安心するように、ナンナは身体をぴったりと密着させできるだけ優しい声をかける。けれど見つかったら殺されるという恐怖は、言葉と裏腹に心臓を暴れさせていた。知らず息が荒くなり、見開いた目から涙が落ちそうになる。
 歯の根が合わずかちかちと鳴り、手先の冷えを感じたナンナは部屋の外へと意識を向ける。
喧騒と足音、金属のぶつかりあう振動と悲鳴。肉の裂ける音。足音。人の声。近づいてくる。ざくざくとした足音。
 がちゃり。
「っひ!」
 この部屋の扉が開く音がして、ジャンヌが思わず悲鳴をあげた。
「誰だ?」
 返ってきた聞き覚えの無い声。敵兵だ、と確信した瞬間、全身が総毛立つような恐怖を感じる。
 嗚咽を必死に堪えるジャンヌを強く抱きしめ、「声は絶対出さないで」と耳打ちしたナンナは戸棚から飛び出した。
 膝が細かく震え、気を抜くと立っていられなくなる。それでも情けなく命乞いだけはするまいと、奥歯を強く噛み締めた。
 男は下卑た笑みを浮かべながら何事か呟いたが、ナンナの耳には届かない。全神経を集中させて隙を狙っていた。一瞬でいい。男の懐に飛び込めればそれで終わる。
 抵抗しようとしない振りをしたのが功を奏したのか、男がナンナを捕まえようと左手を伸ばす。瞬時武器を下げた男の右手を、ナンナの榛色の目がきらりと捉えた。
 ふ、と息を詰め、一足で男へと近づく。素早く懐剣を取り出し、渾身の力を込めて振り下ろす。
「!?」
 しかしそれは、男の右手によって遮られた。先程まで右手に剣を握っていた男は、今ナンナの懐剣を握った左手首を掴んでいる。
 カランと、男の捨てた剣が床に落ちる音が聞こえ、頭の中に響いた。絶望を音にしたらこんな感じだろうか。
 殺されると目を閉じたその時、蛙を潰したような男の呻き声が聞こえる。どっと、顔に何か温かいものが降り注いだ。
「え……」
 男の手から力が抜け、左手を解放されたナンナが後ずさると、男は前のめりに倒れる。その背後には、肩で息をしている蒼髪の男性が、槍の穂先から血を滴らせていた。
「父……様……」
「……遅くなってすまない。二人とも……無事、か?」
 ナンナが頷くと、フィンはほっと息をつき、がくりと倒れる。青い軍服は赤く染まり、床にぽたぽたと鮮血が滴った。
「父様、お怪我を……!」
 その叫びに戸棚からジャンヌが出てきて、背に括りつけていた杖を手に取る。剣の扱いが不得手な彼女は、その分杖を使えるようになろうと日々練習していたことをナンナは知っていた。
 けれど、いくらジャンヌが振っても杖は何の反応も示さない。杖を使う練習を始めてからひと月と経っていないため、まだ自在に扱うことはできないのだろう。
「どうして……あんなに練習したのに……」
ジャンヌの腕が細かく震え、涙が頬をつたった。
 ナンナはフィンの服を裂き、傷口を確かめる。かなり大きな傷で、出血は依然としてとまらない。このままでは、命の危険もあるだろうことは容易に予測がついた。
 父が死んでしまう。
 恐怖が身体を駆け巡った。堪えていた涙が溢れそうになり、泣いている場合ではないと拳で涙を拭う。
 何か傷を癒す方法はないかと考えを巡らせると、不意に頭の中に言葉が響いた。
『この剣がきっと、役に立つ日が来るから』
「……母様」
 ナンナは、左手に握ったままの剣を見つめる。それは母がイザークへ発つ日、お守りにと渡してくれた懐剣だった。大地の剣というもので、相手の生命力を自分のものへと還元できる魔法剣だと、後に聞いた。
 これならできるかもしれない。父の傷を、癒せるかもしれない。
 ナンナはフィンに懐剣を握らせ、そのまま自分の右腕を斬らせる。滑らかな刃は、ざくりと肌に飲み込まれていった。
「姉様!?」
 ジャンヌが悲鳴をあげる。ナンナの腕から血が流れ、剣の柄にある赤い宝玉が鈍く光った途端、身体がずんと重くなった。
「……くっ」
 手足が冷え、頭がずきずきと痛んで吐き気までする。失神しそうになりながらも、父が無事と分かるまではと必死に耐えた。
 やがてフィンの出血が止まり、頬に血の色が戻ってくる。ナンナの額から脂汗が落ち、青ざめた肌にはびっしりと鳥肌が立っていた。光る宝玉は輝きを増し、毒々しい赤色がまるで血のように見える。
「姉様……ナンナ姉様、もうやめて!」
 ジャンヌが必死にナンナの腕から剣を引き抜こうとするが、フィンの手に剣を握らせているナンナの左手はびくとも動かない。「もう少し、もう少し待って」と繰り返すナンナの目は既に虚ろで、ジャンヌは懇願しながら泣き叫ぶしかなかった。
「……ナン、ナ?」
 うっすらと、フィンが目を開ける。それを見たナンナは頬を緩め、そのまま気を失った。



 目が覚めると、そこは自分の部屋だった。
「気がついたか?」
 父に顔を覗き込まれる。はい、と返事をするものの、声は枯れて吐息だけがひゅうと鳴った。
「大地の剣で生命力を吸い取られたのだ。あと二日は寝たきりだろうな」
 眉間に皺を寄せた父を見ながら、けれどナンナは安堵の笑みを浮かべた。父様が死んでしまわなくて本当によかったと、こっそり胸を撫で下ろす。
「何を笑っている? 私は怒っているんだぞ。あんな無茶をして……」
 いつもは叱られることが怖くてたまらないのに、今日ばかりはとても嬉しい。
 ねぇ父様、と声の出ない口で形を作ると、フィンは「何だ?」と顔を寄せる。
『私、これから杖を練習します。ジャンヌと一緒に』
「ほぅ、何故だ?」
『そうすれば、今回みたいなことをしなくても、父様の傷を治して差し上げられるからです』
「おまえは、また私に怪我をさせたいのか?」
 少し微笑んだ父の顔に、ナンナは大真面目に首を振る。その様子に、フィンは声を出して笑った。
「そうだ、まだ言ってなかったな」
 フィンはそっとナンナの髪を撫で、優しい声で言った。
「ありがとう、助けてくれて」
 ナンナはとても嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。