数日前からどことなくぼんやりとしている松本を呼び寄せ、「休暇だ」と告げる。
いきなりの上司の言葉に戸惑ったのか頭が回転しなかったのかは定かでないが、数秒停止した後に松本は「はぁ?」と素っ頓狂な声をあげた。
「なんです、それ」
「ここ数日の仕事ぶりを反省してから物を言ったらどうだ」
こんな報告書、平隊士でも書かねぇよと言われてしまっては、返す言葉もない。
確かに、ここ数日目に見えて仕事の効率は落ちていた。普段から仕事をサボる松本であったが、内容が疎かであったり期限に遅れたりしたことはただの一度もない。執務室から脱け出す度に聞こえる上司の怒号も、勤務態度にこそ向けられ、けして仕事内容に関わるものではなかった。そんな彼女らしからぬ態度は、数日前に起こったあの出来事に起因している。
叱責する際に眉間の皺を増やす癖のある日番谷の眉が、微動だにしないことに松本は気づく。この表情が意味するものは、怒りではなく気遣いと哀れみだった。松本は唇を噛む。こんな表情は、一度たりとて自分に向けられていいものではなかったはずなのに。
「……隊長こそ、」
「俺はいい」
発言を遮られ、ふと軽く溜め息をつく。この頑固で偏屈な上司はひたすら仕事に没頭し続け、その忙しさは以前の比ではなかった。ただでさえ隊長を三人も欠いた護庭十三隊は多忙を極めており、現状では幹部クラスでも休暇など取る暇がない。
その状況下で「休暇を取れ」と言われたことは、松本にとって少なからず衝撃だった。仕事も手につかない心境の自分を気遣ってくれるのは有り難いが、それ以上にそんな心境の部下は必要ないと言われた気がした。
「仕事も満足にできない部下は、足手まといですか」
「分かっているんならさっさと出て行け。当分来なくていい」
不意に鼻の奥がつんと痛むのを感じる。無愛想な物言いなどいつものことなのに、何故か今日は胸に突き刺さる。思ったより不安定になっているようだ。
足手まといの言葉に嘘偽りが無いとしても、額面通りの意味ではないことは承知している。損な性格ですねと揶揄したこともあった。
そして、
(乱菊さん、日番谷くんたらひどいんですよ)
そんな時いつも彼の隣に居た少女は、もう此処にはいない。
左胸を貫かれ、未だ目を覚まさない彼女が起きる日は、果たして来るのだろうか。
松本は、そう遠くない筈の記憶に思いを馳せ、唇を歪める。
ついこの間までの日常が、まるで夢の中のように不確かな輪郭で甦る。それはきっと、もうあの日常が取り戻せないものになってしまったからだ。
無愛想な上司が幼馴染みの少女の前で少し頬を緩めたり、柔らかく微笑んだ雛森が間延びした声で挨拶をしてくれたり、二人のためにこの部屋をそっと出て行ったり、また藍染の話ばかり聞かされたと拗ねる上司の愚痴を聞いたり、そんな類のものが全て、もう戻ってこない過去の平和な時間になってしまった。
そして、いきなり背後から視界を塞ぐ冷たい両手の持ち主も。
ごめんな、の一言だけを残して、また何処か知らない場所に行ってしまった彼も。
死にそうにお腹が空いていた時に、食べ物をくれた少年も。
全部全部、此処からなくなってしまった。
「松本、」
はい、と返事をした声は、震えていた。
日番谷は困ったように目を伏せ、躊躇いがちに口を開く。
「帰ってこねぇやつと起きねぇやつと、どっちを待つのが楽だと思う」
こんな、年頃の少年のような物言いをする上司は珍しかったので、松本は少し目を細めて銀色の頭を撫でてやった。いつもなら激昂するであろう彼は、されるがまま受け入れている。その様子に、このひとも淋しかったんだろうという思いが湧き、気づけなかった自分が大層腹立たしいと思った。
「わかりませんよ、そんなの」
扉の向こうから、慌しく行き交う足音が聞こえる。けれど、桃色より少し赤い霊圧と軽やかな足取りはもう聞こえない。いつも何処かから聞こえてきた、吉良が自分の上司を探し回る声も聞こえない。淋しいなんて言葉ではきっと足りなかった。それほどに自分は、あの日常に満たされていたのだと、失ってから思い知る。
「私、誰かを待ったことなんて、一度もないですから」
そうか、と日番谷は気のない相槌をうつ。松本は撫でる動作を止めないままに、ふと窓の外へと視線を移す。
晴れの青い空に、季節はずれの雪が、ちらちらと脳裏に浮かんだ。
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