彼に罪があったとするならばそれは、
 あまりに優しかったことだろう。


「こんなのいらない」
 ユリアは、泣きじゃくりながら額に浮き出た聖痕を示す。
「ねぇ、イシュタル様。王になられるのは、にいさまでしょう?」
 誰かに肯定して欲しいという面持ちで、彼女は姉と慕う人物の腕を掴む。ここ数日、誰彼構わずにこう問いかけては求める答えを得られずにいる。
 それはイシュタルも例外ではなく、他の誰もと同じように首を振ってただ否定の意を示した。
「姫様、どうかお分かりになって下さいませ」
「わからない」
 叫ぶように、ユリアは声をあげる。ぶんぶんと激しく首を振ると、ひときわ大粒の涙がぼろぼろと流れた。
「みんな変。ずっとずっと、にいさまこそ王になるべきだって言っていたのに、どうして急ににいさまに冷たくするの?」
 その言葉に、イシュタルは黙って俯いた。大人とは利に聡くそして貪欲だということを伝えるには、目の前の少女はあまりに穢れを知らなさ過ぎる。そしてそれを言ってしまえば、この無垢な姫君が更に泣いてしまうことも分かっていた。
 聖痕がユリアの額に浮き出たのは数日ほど前のことで、その日から宮廷内は騒然とし、兄妹を取り巻く環境は急変した。
 未来の皇帝となるべく皇太子位についていたユリウスの廃位が検討され始め、もはや彼の将来が閉ざされたと見なした教育係や側仕えの臣達はこぞって辞意を表明した。殆どが妹姫への転属を願い出、そのたびに皇帝の怒りをかって首を斬られることとなる。結局以前と変わらず彼の傍に居たのは、皇帝の代から仕えていたマンフロイ大司教ただひとりであった。
 加えて、次代の後継者とされたユリアに取り入ろうと近づく人々は、従来の倍ほどにも増えた。生来病弱であり、そしていずれ他家へ嫁いで皇家を離れる彼女に出世を目論む人々は元々近づくことがなかった所為もある。しかし、繊細な彼女はこの事態に対応するだけの余裕がなく、いつも兄君の部屋に逃げ込んで取り巻きを避けていた。
「ユリア、あまりイシュタルを困らせちゃだめだよ」
 読みたい本があるからと、数時間ほど前に部屋を出て行ったユリウスが本を二冊抱えて戻ってきた。肩口で切りそろえられた赤い髪がさらりと揺れ、彼は優しい微笑を頬に浮かべる。
「にいさま……だって、だって」
「言い訳はいいから、ほら涙を拭いて。こすっちゃだめだよ」
 妹の頭を撫で、頬に残る涙を拭くユリウスの姿を見て、イシュタルはそっと唇を噛んだ。
 泣いてはいけないと幾度も心に言い聞かせたのに、ふと気を緩めれば泣いてしまいそうになる。
 それは、自身が主君と仰ぐ者が王位を継げなかった悔しさではなく、ましてフリージの家名がこの皇子に仕えることで上げられなくなったからでもない。
 泣きたくなる理由はただひとつ、あまりにユリウスがいつもと変わらずに笑っていることだ。ユリアに聖痕が浮き出てからというもの、彼は何度も理不尽な言葉を方々から浴びせられ、そして手のひらを返したような人々の反応を見てきたはずだ。この数日の間、この皇子は心の休まる時がなかったに違いない。
 そんなユリウスの胸の内を思うと、イシュタルは悲しくてたまらなくなる。しかし、この感情を伝える言葉を彼女は持ち合わせていなかった。それは憐れみや同情だと忌避される可能性もあり、事実言葉にすると「可哀想」としか言えないことに気づく。
 ましてイシュタル自身も聖痕を持ち、フリージ家を継ぐことが確定している身である。そんな自分が、聖痕が出なかったユリウスを憐れだと言うことは傲慢以外の何でもないだろう。
 けれど、そんなイシュタルの気持ちとは裏腹に、彼の笑顔には一点の曇りもない。
「ユリウス様」
 泣きつかれた妹を寝かしつけ、持ってきた本に向き直った皇子の名をそっと呼ぶ。
 なぁに、といつものように微笑む彼を、イシュタルは責めたてたくなる。
「怒って下さい、私も怒ります。泣いて下さい、私も泣きます」
 左腕を掴み、額を押し付ける。言葉にすると本当に悲しくて悲しくて、我慢していた涙がとうとう溢れた。
「ユリアといい君といい、どうして泣くのかなぁ」
 妹にしたように、ユリウスはイシュタルの頭を撫でる。
「僕は何も悲しくはないよ。怒る必要も、泣く必要もない」
「どうしてですか……」
 イシュタルは、涙に濡れた顔を上げる。ユリウスは、いつもより少し困ったような表情で笑っていた。
「だって、みんな自分の為だもの。ひとはいつだって、自分の利益のためにしか動けない。僕に利用価値が無くなったから離れて行っただけだよ。僕は、自分の価値まで失ったわけじゃない」
「それは……そうですけれど」
「ね。僕には、僕のために泣いてくれるひとが居てくれるだけでいいよ」
 そして妹にしたように、イシュタルの涙をそっと拭った。
 彼の為だというのなら、いくらでも泣こう。自分が居ればいいのなら、一生傍にいよう。
 この時、イシュタルはそう誓った。
 他人の悪意をさらりと受け流すこの皇子を、イシュタルは心から尊敬し、そして愛していた。


「もしファラの聖痕も出てこなければ、旅人になろう。今まで読んだ本に書いてあった場所をたくさん訪れて、この目で色々なものを見てみたい」
「いいですね、私も行きます」
「イシュタルはフリージの当主になるんだろう? 責任を放棄しちゃだめだ」
「……はい」


 その翌年、ユリウスとユリアの誕生祝いの席で、マンフロイ大司教が不気味な闇色をした魔道書を携えてきた。彼を嫌っているユリアは、姿を見るとさっと兄の後ろに隠れる。その時折しも皇帝と皇妃は、広間で祝いに駆けつけた貴族達の長い挨拶を聞いており、不在だった。
「心よりお喜び申し上げます殿下。私めからの贈り物でございます。どうぞおおさめ下さい」
 恭しく書物を掲げ、ユリウスの前へと差し出す。
「……いや、それは怖い……にいさま、それに触れないで」
 ユリアはがたがたと震えながら兄にそっと耳打ちをする。ユリウスは、そうもいかないだろうと妹を窘めた。贈り物を拒否することは、その臣に恥をかかせることとなる。
「ありがとう大司教。これからも私を導いてくれ」
 ユリウスの指が、黒い魔道書に触れる。途端、漆黒の風が起こり、次いで黒炎に変わる。禍々しいまでに巻き起こる炎と共にユリウスの魔力は際限なく膨れ上がり、その場に居合わせた人々を圧倒した。
「ふ……ははははっ! 遂にやったぞ!」
 マンフロイ大司教は皺だらけの顔をくしゃくしゃに歪めて高笑いし、ユリアは身を屈めながら声をあげて泣き叫んだ。
「いやぁ! にいさまを返して! 返して下さいっ!」
「ユリア!」
 騒ぎを聞きつけた皇妃はいち早くその場に駆け込み、娘を背に庇った。
「とうとう……この日が来てしまったのね」
 皇妃ディアドラは、すっかり別人のように目つきが変わってしまった息子を見上げる。ユリウスは地の底から響くような声音で、母に答えた。
『愚かなことだ、光の眷族よ。こうなることが分かっていたなら、この身を早々に殺してしまえば良かったものを』
「そんなことできるわけがないわ。私はあなたを……あなたが依り代としている子を生んだ時から、殺される覚悟を決めていました」
『人とは解せぬものよ』
「母親とはそういうものなのです」
 その言葉を皮切りに、バーハラ城は惨劇の舞台となった。


 それから数年。
 ユリウスが実権を掌握した宮廷で、イシュタルは主君が罪人だと述べた人物を次々に殺していた。
 助けてと、目の前の声が耳朶をうつ。
 その懇願に、イシュタルは躊躇うことなく右手をかざした。
「ありがたくも、そなたは殿下から死を賜ったのですよ?」
 豚のように太り、醜く泣き顔をさらすその男には見覚えがあった。
 数年前にあった聖痕騒動の際、この男はイシュタルの前でユリウスを侮辱した。
 何と言っていたのか、今でも明瞭に思い出すことができる。厭な記憶というものは忘れ難いものだ。
 皇位も継げないような役立たずに、今まで何の為に取り入ってきたのか。長い年月つぎこんだ私の財をどうしてくれる。おまえなど、このまま一臣下に成り果ててしまえば良い。
 そう言って、ただ黙って聞いていたユリウスの頬を殴りとばした。泣きながら駆け寄るイシュタルに、それでも彼は笑ってみせた。
 こんなの痛くないよ。だから泣かないでと、あの優しい皇子は笑った。
 嘘だと叫んで、イシュタルは激しく首を振った。あの日から、主君に狼藉を働いた者の顔を、彼女は脳髄に刻むようにして一人一人覚えていた。
「おまえなど……!」
 右腕の光が弾ける。雷精が急速に腕に集い、ばちばちと火花が爆ぜる。フリージの血は感情の昂ぶりに呼応し、術者の能力を倍増させた。
「我が主君を愚弄したおまえなど……八つ裂きにしてもまだ足りぬ!」
 かっと眩い閃光がはしり、その男は跡形もなく消滅した。
「見事なものだな、イシュタル」
 後ろに控えていた主君は、笑いながら賛辞を送る。勿体ないお言葉でございますと、イシュタルは頭を垂れた。
「そなたの気が済むまで殺すと良い。どうせそのような奴ら、生かしておいても何の役にも立たぬ。それが済めば、我が魔力の源となる子ども狩りを始める。そなたの領地に住む子ども達をできるだけ集めておけ」
「……はい」
 ユリウスの側近として傍に仕えて、十年が経とうとしていた。数年前にバーハラ城の惨劇が起こってから、この皇子は以前のようではなくなった。
 人を憎むことを何より嫌い、誰にでも分け隔てなく優しく、いつでも微笑みを絶やさなかった穏やかで優しい皇子は、今や血を好み、人を平気で殺し、子ども狩りさえ行おうとしている。
 イシュタルは、これが歴史の中にある暗黒時代の再来なのだと感じた。主君に宿った暗黒神は、民を苦しませ子を奪い、人々を恐怖の底に叩きいれるであろう。
「仰せのままに、ユリウス様」
 それでも、逆らうことはできない。いや、そもそも逆らう気などない。ユリウスに暗黒神が宿らなければ、イシュタルの願いは叶わなかったのだから。
 ずっと彼の傍に居たいという願いは、叶わないはずだった。あのまま自分はフリージの当主におさまり、政治的に利用価値のある顔も知らない男と結婚させられ、主君は身分を放棄して宣言通り旅に出ていたであろう。
 けれど、今こうしてイシュタルはユリウスの側近として居られる。母は実権を握っている皇子をすっかり気に入り、お妃にして貰いなさいと言ってきている。このまま世が変わらなければ、ずっと彼の傍に居ることができる。
 けれど。
 現状に不満はない。けれど、イシュタルはふとした時に考えてしまう。
 以前のユリウスなら、現状を見てどう思うだろうかと。
 他人の怒りや憎しみさえも受け止めてしまえるほど優しかった皇子が、自身の手で人々を苦しめていると知れば、どれだけ嘆き悲しむだろうか。
「ユリウス様」
「……なんだ」
 目つきはまるで別人のよう。額には、暗黒神を示す印が刻まれている。けれど、返事をしてくれる時に少しだけ微笑む癖は昔のままだった。
「旅に、出ませんか?」
「…………」
「アグストリアや、シレジアや、名前も知らない海の向こうの国でも構いません。この目で色々なものを見てみませんか?」
「…………」
 ユリウスは、黙したまま答えない。イシュタルは頬が強張るのを感じながら、それでも懸命に言葉を並べた。
「私……ユリウス様と一緒なら、何処へでも」
「イシュタル」
 ひやりと冷たい手が、イシュタルの頬に触れる。炎のいろをした鋭い眸に、顔を覗き込まれた。
「行きたいなら一人で行け。おまえの代わりなどいくらでも居る」
「……っ」
 がくり、と膝の力が抜ける。涙がぽたぽたと、床に吸い込まれていった。
「ユリウス……様……」
 あどけない少年だった頃の主君の笑顔が閉じた瞼に浮かび、そして溶けるように消えた。


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