たぶん、ずっと遠い昔のことだと思う。記憶がすりきれるほど遠い昔、自分には還りたい場所があった。
誰かのところに戻りたいと願ったこと、ただそれだけを覚えていた。
存在が創り出されるより以前、自分は何か別の存在であったように思う。大雑把に言えば同じ存在で、厳密には違う存在。もしかしたら記憶を共有しているだけで、自分は本人ではないのかもしれない。けれどその記憶はとても大切で、それのために自分は今ここにいるのだという揺るぎない確信があった。
視界が緑に染まる。柔らかな葉を持つ木々が枝を伸ばし、自分の視界を遮っていた。空はぼんやりと蒼く、風の匂いが甘い。
あぁ春だと思った。
そして少し遅れて、春とはなんだろうと考えた。
ぴちょん。水音がする。傍に水溜まりがあった。昨日、雨でも降ったのかと思った次の瞬間には、さて昨日とは何だっただろうと考えた。
長らく時間の支配を受けない世界にいた自分では、記憶の持つ概念を理解しきれていないようだ。それが何となく、淋しいことのように感じた。
水溜りを覗き込んでみる。そこに映るのは、自分の姿であるべきだった。けれど水に反射する自分の姿は、以前はきっとこんなふうではなかったのだろう。違和感がまずあった。次に、驚愕と幾許かの感動が伴った。たとえ違っていたとしても、この姿だってそう悪いとは思わないので嘆きには至らなかった。
軽くなった気分で山を抜け、砂浜に降り立つ。この器官が足と呼べるものであるのなら、足裏で白い砂がさくりと音をたてる。
青い海から、波が打ち寄せるのが見えた。ふわりと風が吹き、身体を優しく撫でていく。遠くに見える木々が揺れ、何処からか花びらが一枚舞い降りた。薄紅色の花びらを、そっと受け止める。綺麗だと思った。同時にとても懐かしいと感じた。風はふわふわと柔らかい感触で身体を包み込む。
……そうし。
風の音に混じって、誰かの声がきこえた。
おかえり。
それは空気を伝わって響くものではなかったが、確かにきこえた。優しい、懐かしい声。周りには誰もいないはずなのに、声は尚も響いている。
おかえり、そうし、おかえり。
そうし、とは何だろう。ふと疑問に思ったが、その前に視界がぼんやりと滲む。機能は正常に働いているはずなのに、不具合が起こったのだろうか。不審に思う間もなく、続けて自分の中からも声がせり上がる。
つばき。
そう、自分は言った。つばき、が何を示すのかは、やはりよく分からなかった。ただ、その意味を知っていた以前の記憶が叫んでいた。歓喜と悲痛がないまぜになった声が流れとなって、身体の内側を迸る。痺れるような嬉しさと同時に、身がちぎれるような悲しさを感じた。
「そうし」
先程の声とは違う、空気を震わせて届く声がした。後ろからきこえる。
どくん、と身体の中で何かが跳ねる。身体中が、できるかぎり早く後ろを振り返れと命令する。
けれど身体は震えるばかりで、全く動けなかった。視界はますます歪んでいき、白い砂浜にぽたぽたと水滴が沁みていく。
「ないてるのか、そうし」
なくとはなんだろう。
そう確か、悲しい時にすることだった。昔、悲しい時に自分はないたことがある。けれどそれだけではない。嬉しい時にも、同じように違う気持ちでないたことがあった。
おまえが くるしんでいたことが わかったきがする
そう言われて、嬉しさのあまりないた。どうして嬉しかったのかは思い出せないけれど、とても幸福な気持ちになった。そして今も、嬉しいから自分は泣いているのだ。
嬉し涙が、ぽろぽろと頬をつたって落ちる。これを頬と言えるのならば、きっと素直に振り向けただろう。水溜りに映った姿を思い出す。以前と違う自分の姿を見れば、後ろに居る彼は驚いてしまうだろうか、失望してしまうだろうか。そんな不安が自分の中に渦巻くのを感じた。
「そうし」
そうし
ふたつの存在が、自分を呼ぶ。
思い出した。そうし、は自分のなまえだ。
個体である存在が、お互いを認識するための呼び方。ずっと以前、自分はそうしという名の個体だった。今と同じように、そうしと呼ばれていた。
ゆっくりと、後ろを振り向く。あっと、思わず驚きの声をあげた。
そこにいたのは、自分と同じ金色に輝く個体だった。記憶の中の存在とかけ離れた姿で、彼は確かにそこにいた。自分と同じように以前とは違う姿になった彼に、しかし失望はまるで感じない。やっと会えた、やっと還ってこれたのだという喜びだけがあった。
「かず、き」
目の前の個体を呼ぶ。すると、そっと彼の手が自分の手に触れる。手と呼べるものなのかどうかは分からないけれど、触れた感触が伝わってきた。あたたかい、人の肌の手触りだった。
「そうし」
その時、目の前の個体が人間の姿へと変わる。それは黒い髪で穏やかな笑みを浮かべた、かつての友人の姿だった。
そして彼らを取り巻く風も、優しく微笑む少女の姿になる。それは長い髪をなびかせた、かつての妹の姿だった。
「おかえり」
おかえり、そうし。
声がひびく。視界が滲む。自分は笑ったのかもしれない。溢れる涙はとどまるところを知らず、それでも身体の中は幸福で満ちていた。
自分は還ってきたのだと、やはり此処に還ってきたかったのだと思った。
「ただいま」
ずっと言いたかった言葉。此処にある存在として、大切なふたりに会って言いたかった言葉が言えた。
いきていることに 感謝しただろう
それが いまここにいることの 喜びだ
かつて自分が言った言葉を、じわりと噛み締めていた。
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