子ども達が泣いている。妹が泣いている。
 おなかがすいたと、泣いている。

 母の遺した弓を、ファバルは疲れた目で眺める。どんなに金に困っても、売ってはならない。どんなに金に困っても、これを金儲けの道具にしてはいけない。それは、神器に対する冒涜だと、育ててくれた孤児院の院長が何度も述べていた。臨終の際にまで、自分に言い含めた。
 神器。ファバルはそう呟いて、弓を手に持つ。触れた瞬間から神々しい光を放ち、神器と呼ばれるに相応しい姿を見せる。それが、自分がこの弓の使い手だという証であった。
 神代の御世、まだ弓神ウルの手にあった頃からこの弓は、同じように光続けてきたのだろう。目を閉じると、この弓の背負う歴史が脳裏を駆け抜けた。
 ある時は英雄として名を持つ者の手に。またある時は反逆者と罵られた者の手に。弓の在り方は変わらず、けれど時代が変わるごとに果たす役割は変わった。
 時代が違えば、存在意義も変わる。幼いながら、ファバルはそのことを正しく理解していた。
 神器に対する冒涜だと、かつての栄光を知っている人物は言った。この弓が崇拝され、尊ばれていた親の代までは、確かに冒涜だったのだろう。けれど、それは現在ではない。頼るべき大人の一人もおらず、飢餓感に泣く小さい子どもを幾人も抱える自分は、その栄光も弓への崇拝も何一つとして知りはしないし、また知ったところでどうなるものでもない。かつてあった栄光に縋っていても、孤児院の子ども達の腹が膨れるわけではない。妹が泣きやむわけではない。自分で何とかしなければ、誰も助けてなどくれない。
 ファバルはかつて神器と呼ばれた弓を、血が滲むほど握りしめる。
 この境遇への不満など、言うものか。もっと酷い状況にいる人間を、自分は幾らも知っている。親の無い子どもは、雨風が凌げる屋根のある家に住めているだけでも感謝しなくてはならないような時代だ。行動するべきは現状を嘆くことではなく、打破することである。
 冒涜が、何だ。そう吐き捨てると、不思議と心が落ち着いた。
「おい、お前……ええと、イチイバル」
 名を呼ぶと、呼応するように音が鳴る。気味の悪い弓だなと苦笑した。
「時代が変わればやることも変わる。けど、お前のしてきたことは変わらねぇだろう?」
 いつの時代もそうだ。持ち主の立場や境遇さえ違えど、この弓の在り方は変わらない。常に一言に集約できる。
 人殺し、と。
 ならば、これからもやることは同じだ。自分の腕と神器と呼ばれた弓があれば、傭兵だろうと用心棒だろうと、やれることは幾らでもあるだろう。
「俺の手足となれ、イチイバル」
 多くの血を吸ってきた神器は、喜ぶかのようにひときわ高い音で主人に応えた。


 遠くで、戦争をしている音が聞こえる。空を仰ぐと、視界が何かを横切る。
「トラキアの、竜騎兵か」
 短い金髪をさらりと揺らし、ファバルは軽く舌打ちする。戦場となっている、国境沿いのマンスターから逃げてきた市民は多い。マンスターの勇者とかいうやつが最前線で敵を食い止めているらしいが、撃ち洩らしは少なからず居るようだ。戦場となっているところには、自軍が加勢している。ほどなく決着はつくだろう。しかし、此処から先に敵を行かせるわけにはいかない。自分の背後には逃げてきた市民と、幼い頃からずっと守ってきた孤児院があるのだから。
 ばさりと地上にまで届く羽音と共に、微かな風圧を頬に感じた。思ったより低空を飛んでいるらしい。ファバルの眸が、獲物を狙う狙撃手の目へと変化する。
 隠れ蓑にしている森の木々をするすると登り、目標に向かって弓の弦をぐいと引く。
 矢の無い弓は光を放ち、それは鳥の形に変化する。神々しいまでの光の鳥は、狙撃手同様鋭い目で敵を睨む。ファバルは指先に力を込め、ゆっくりと神言を唱えた。
「我が血の盟約によりて飛べ……イチイバル」
 解き放たれた鳥は光速で飛び、目標を数体一度に焼き尽くした。神器はひとつで千の武器に匹敵するというのが、使うと容易に分かる。
 ほぼ同時に、マンスター城に白旗が上がる。自軍の指揮官が城を制圧したのだ。竜騎兵の残党もいないようだし、単独行動をしている自分はそろそろ引き上げ時だろう。
 足場にしていた木から降りると、薄暗い森の中でも目立つ夕日色の巻き毛が見えた。
「ラナ?」
 いつもは愛らしい笑顔を返す従妹は、呼びかけても虚ろに視線を返す。何かあったのかと駆け寄り、その姿に息を呑む。
「どうしたんだ、おまえ……」
 彼女の白い法衣は真っ赤に染まっていた。怪我でもしたのかと思ったが、泣き出しそうな表情とその腕に抱かれている子どもの姿から、ファバルは全てを理解した。この血は、全てこの子どものものだ。
 流れ出る血の量を見て、このままでは助からないだろうと思った。普段なら、ラナは体力の続く限り杖を振るうのだが、彼女の背に括り付けられた愛用の杖は既にぼろぼろになって壊れていた。たくさんの人の傷を治して、治して、そして役目を終えた杖では、もう役に立たない。
「ファバル」
 張り詰めていたものが切れたように、ラナの茶色い眸からぼろぼろと涙がこぼれる。子どもを抱く手に力が込められ、痙攣を起こしたように震えだす。
「助けて……! お願い、助けて、助けて、助けてよぅ……っ!」
 悲痛な叫び声をあげる彼女は、子どもを放さないままその場に崩れ落ちる。以前にも、似たようなことがあったとファバルは唐突に思い出した。
 その時ラナは、既に息を引き取った人間を抱いていた。泣きながら死骸をいつまでも抱きしめている彼女に、ファバルは大きく溜め息をついた。

 戦場で、命が失われるのは当たり前のことだ。いちいち泣いていたらキリがないぜ、お嬢様。目の前で人が死ぬのを見たくないのなら、故郷に帰ってママと暮らせ。

 そう言った瞬間、頬に鋭い痛みがはしった。頬を張られたのだと気づいた数瞬後、続けざまに言葉を浴びせられる。

 戦場で、私やあなたが殺されるのならそれは当たり前よ。でも、この人は何の関係もない市民だわ。戦争なんてものが無ければ、普通に生活して永く生きていけた人なのよ。私達が始めた戦争に巻き込まれて理不尽に命を奪われた人に向かって、よくもそんなことが言えるものだわ。あんたこそ、人の命を奪って生きる重みを知りなさいよ。

 人の命を奪って生きる重み。
 その言葉が、ずしんとファバルの心に圧し掛かった。
 自分にとって、人の命を奪って生活することは当たり前のことだった。相見えた対立勢力、賞金首、犯罪者から街を統べる長まで、金になる人間は構わず殺してきた。そうしなければ、生きていけなかった。それに重みを感じたことなど一度もない。ただの、一度も。
 それなのに、この重さは何だとファバルは自問し、そしてふと思い至った。あの死骸は、無関係な人間だ。
 ファバルにとっては、金にならない殺しなど意味はない。けれどラナの腕で死んでいる人間は、金にすらならないのに殺されてしまった。いや、自分達が殺したとも言えるのだろう。戦争の所為で、それを初めた人間の所為で死んでしまった。彼は戦争というものとはかけ離れたところで、日常を送るはずの全く無関係な人間であるのに。
 子ども達の泣き声が鼓膜に甦り、頭の中に響く。あの孤児院の子ども達の親も、無関係に殺された人達だった。帝国兵の横暴と圧政に、苦しみながら死んでいった親達だった。戦争と圧政の違いはあれど、無力で無関係な立場の人間は、いつだって時代の流れに翻弄されてしまう。
 今まさに、自分は翻弄している側に立っているとファバルは思った。自身で望んだことだったはずなのに、いつの間にか自分が最も忌み嫌う存在になり果てていた。無力な存在であった昔の自分は、時代の流れの理不尽さを確かに憎んでいた。こんなことがあってたまるかと、激しく憎んだはずだった。
 当事者だけではなく、あらゆる人間を巻き込む戦争という大きなうねりをファバルは感じ取る。人殺しを、悪いと思ったことはなかった。孤児院の子ども達を生かしていくためには、そうやって金銭を稼ぐしかなかったのだから。けれど、今自分がやっていることは結局、親がいなくて腹を空かせるあの子ども達を増やしているだけではないか。
 畜生、とファバルが自嘲の言葉を呟くと、怒りに眸を滾らせていた少女の眉が下がる。どうして、と形の良い唇が呟いた。どうして、泣いているの?
 死骸を抱く少女を前に、ファバルは涙の流れるままに泣き続けた。


 その少女が、今は助けてと叫んでいる。まだ細く息をしている子どもを抱えて、泣いている。
「ラナ、貸せ」
 子どもを抱き取ると、イチイバルを触れさせる。ふわりと柔らかい光が子どもの身体を覆った。
 イチイバルには、所持しているだけで身体の傷が少しずつ癒えていくという不思議な作用がある。さすが神器と呼ばれるからには、普通の弓にない能力があるものだ。
「こいつの回復だけじゃ足りない。早く本隊の救護班と合流するぞ、走れるか?」
 イチイバルに釘付けになっていたラナは弾かれたように立ち上がる。が、ぐらりとバランスを崩してファバルの方へと寄りかかった。具合でも悪いのかと視線を下方へと投げかけ、その原因を見て血の気がひく。
「おまえ、足……」
 ラナの右足が、ざっくりと切り裂かれている。相当深い傷で、まだ血が止まっていない。この足で、どうやって子どもを抱えたまま歩き回っていたのだろうか。
 ファバルは頭に巻いていたバンダナでラナの止血をし、子どもをイチイバルごと脇に抱える。
「おぶされ、その方が早い」
 歩くのは不可能と判断したのか、ラナはおとなしくファバルの背におぶさる。見た目にも小柄な彼女は、やはりおぶっても小さくて軽い。そして、あたたかかった。
 ファバル、とラナが呟く。耳元で囁かれる声は、いつもより高くそしてくすぐったい。
「ありがとう」
 ざわりと肌があわ立つ。同じ声がかつて、どうして泣いているのと言っていた。どうしてだか分からない。けれどあの時も今も、無性に泣きたくなった。
 俺に礼なんて言うな。そう呟いて、ファバルは唇を噛みしめる。
 無力な人間が傷を負うのは、自分達が巻き込むからだとラナは言った。
 人の命を奪って、平和のためにと声高に叫びながら自分達は進む。殺しているという意識こそ無いけれど、それでも確実に無関係な命は途切れていく。それはとても苦しく、重い。
 その覚悟もなく、戦争という渦に身を投じた自分が、とても罪深い存在に思えてならなかった。


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