「アーサー」
 決して振り返らないであろう背中に、私は何度でも呼びかける。
 ふいに、母の言葉が脳裏をよぎった。
 我らがお仕えする王は、何にも縛られない風のようなひとなのだと。


 母が彼の手をひいて家に連れてきたのは、私がまだ小さい頃だった。
 癖のない長めの髪と、大きな灰色がかった碧眼が印象的な男の子。
 彼は兄と同い年で、よく一緒に魔法の練習をしていた。魔道書も杖も使えない私は、二人の横で槍を振っていた。
 いつか母のように強い天馬騎士になって、帝国の圧政下に置かれているシレジアを取り戻そう。シレジアが平和になればレヴィン様も帰ってきて下さるだろうと、兄と話したことがあった。
 母は、お仕えしていたレヴィン様のことについてよくお話しをしてくれた。兄が生まれた時、レヴィン様は兄にご自分の始祖の名を託され、シレジアを頼むと言われたそうだ。
「母上、どうしてレヴィン様は、ご子息にセティと名付けられなかったのですか?」
 聡明な兄は何に対しても疑問をもち、そして疑問を疑問のまま置いておかない性格だった。母はやわらかく微笑み、兄の頭を撫でてこう言った。
「あの方のご子息には、奥方様が名前をつけられたからよ」
 けれどそれがどのような名前なのか、その時は教えてはくれなかった。


 母が病に臥せ、兄が家を出た。
 行方不明の父を見つけるのだと、手がかりが何ひとつないのに出て行った。
 それは、ある雪の降る寒い晩のことだった。
 いつもは寝ている時間だけれど、外の喧騒に目が覚めた。アーサーと兄が言い争っていたのだ。
「フュリーさんが病気だってのに、何処に居るかもわからない親父を探しに行こうなんざ、何考えてんだよお前」
 棘を含んだように鋭いアーサーの声が聞こえる。私は上着を羽織り、そっと外に出て耳を澄ました。
「こんな時だから、だ。君は知らないだろうが、母上はいつも父上のことを思っていらっしゃる。会わせて差し上げたいと思って何が悪い」
 いつもは落ち着いている兄も、少し苛立っているようだ。ぴりぴりと険悪な空気が伝わってきて、私はごくりと喉を鳴らした。
 ふざけんな。
 アーサーの怒声が飛ぶ。思わずびくりと肩が震えた。
「お前は医学の知識があるから分かるだろう、フュリーさんは次の春まで生きていられないって」
 瞬時、私の呼吸が止まる。嘘だ、という言葉が頭の中を駆け抜けた。
 母は大したことないから、心配しないでと笑っていた。兄やアーサーも、寒さにやられただけだから、雪が融けて春になれば元気になると言っていた。
 嘘だったの?
 夜の闇と雪しかない白黒の世界が、ぼんやりと滲む。寒さでかじかんだ手に、落ちていく涙だけがあたたかい。
 兄の返答は聞こえない。沈黙はつまり、肯定しているということだろう。
 アーサーもそう判断したのか、彼は続けて言い放つ。
「お前がやろうとしていることは、ただの自己満足だ。今から探して、親父を見つけるのに何年かける気だ。ふらふらと世界の何処かをほっつき歩いて、母親の最期も看取ってやらない気か。フィーはどうなる。頼る兄がいなくなった後に母親までいなくなったら、あの子はひとりぼっちになっちまうんだぞ」
 アーサーの声がやむと、兄は低いけれどよく通る声で言った。
「どうして間に合わないなんて、君にわかる? 間に合わせてみせるさ。母上のお命が尽きるまでに、父上を探して帰ってくる。そうすれば、きっと母上も元気になられて長生きをして下さるだろう」
 決意のこもった強い声。兄は本気なのだ。本気であと数ヶ月の間に、父を探そうと思っているのだ。私の兄はとても頑固で、決めたことは簡単に覆さない。
 アーサーもそれを悟ったのか、やれやれと溜め息をついた。
「俺、お前のそういう夢見がちな所嫌いじゃないけどさ。もう少し現実を見ろよ」
「私も、君の現実的な所は嫌いじゃない。けれど、もう少し希望を持ってもいいんじゃないか?」
 ざく、ざくと雪を踏みしめる音が遠ざかる。兄が、行ってしまうのだろう。
「アーサー。私が帰ってくるまで、母上とフィーを頼む」
 その言葉に、アーサーがばかやろう、と返す。
 私は見送ることもできず、夜風に吹かれながら泣きつづけた。


 春の雪融けを待たずに、母が息を引き取った。
 兄は、帰ってこなかった。間に合わなかったのだ。
 涙の止まらない私を支えてくれながら、アーサーが母を手厚く弔ってくれた。母はレヴィン王直属の家臣であり、英雄シグルドに力を貸していたこともあって、多くの人々が母を惜しみ、悼んでくれた。
 今際に母は、アーサーに魔道書を渡した。あなたのお母様から、ずっと預かっていたのだと言っていた。その魔道書の表紙を見て、私は愕然とした。それはシレジア王家に代々受け継がれる、神器フォルセティだった。
 更に、母はアーサーの素性を教えてくれた。父はシレジアのレヴィン王。母はグランベルの名門、フリージ家のティルテュ公女。幼い頃に消えたというアーサーの母親と妹は、きっとフリージ家がレンスター支配の拠点としているアルスターに居るだろうということ。
 その一言一言にアーサーは頷き、母の痩せ細った手を握りしめてありがとうと言っていた。
 母の葬儀が終わると、アーサーは早速荷造りを始めた。きっとそうするだろうと思っていた私は、さして驚かない。
「行くの?」
 そう訊くと、私に背を向けたまま彼はそうだと答える。少ない荷物と路銀をまとめる後姿を見ながら、私はこの男の家族にはなれなかったんだと思った。
「世話になったな。今までありがとう。元気で」
 そんな短い言葉を残して、彼は去って行こうとする。それだけだ。十年以上も一緒に居たのに、私に対する言葉はそれだけ。

「アーサー」
 決して振り返らないであろう背中に、私は何度でも呼びかける。
 ふいに、母の言葉が脳裏をよぎった。
 我らがお仕えする王は、何にも縛られない風のようなひとなのだと。
 ならば私は、風の家臣の私は、同じ地に根ざしていてはいけない。
 風と同じ速度で飛んで、何処までもついて行かなくてはいけない。
 ついて、行きたい。
「一緒に、行くわ」

 彼は弾かれたように振り向き、目を丸くしてから、少し笑った。

「ありがとう、フィー」



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