私の記憶は、路傍の石のように何処かの道端に転がっていたところから始まっている。
それ以前の記憶は無い。歳の数と名前だけは理解していたが、他のことは全く覚えていなかった。今だって思い出せない。
まだ片手で数えるに足る歳だったけれど、それまでは温かい家庭で育っていたと思っている。どうせ無い記憶なら、良い方向に考えればいいのだ。
おなかがすいた。
何度も何度も繰り返しそう呟いたけれど、道行く人々は誰も気にとめない。私の姿が見えていないのではないかと思うほど、無関心である。今となっては、それも当たり前だと思う。行き倒れる子どもなど、さして珍しくもないのだから。
どれほどの間、そこに転がっていただろうか。時々ひどい睡魔に襲われては目覚め、空腹に泣いてはまた眠っていたので、果たして何日間の出来事だったのか判然としない。それでも、気の遠くなりそうに長い時間のように感じたことは確かだ。
永遠に続くかと思われた時間の終わりは、誰かの声によって訪れた。
「あぁ……こりゃ死にかけてますぜ、姐さん」
街のざわざわとした喧騒の中、その声だけが鮮明に届いて私は瞼を上げた。
鼻先を掠めるほどの距離に、二人分の足が見える。続いて少し顔を上げると、いかにも無骨そうな体格の良い男と、派手な顔立ちをした女の顔が目に飛び込んできた。
「こんな痩せっぽち拾っても、食い扶持に見合う芸ができるとはとても思えませんがねぇ」
ぐい、と腕を掴まれる。すっかり筋肉の削げ落ちた骨と皮ばかりの腕は、急な刺激にぎしりと軋んだ。
「そうお言いでないよ。見たところ可愛らしい顔をしているじゃないか。才覚のほどは分からないけど、そろそろ弟子が欲しいと思っていたところだ。あたしがみっちり鍛えてやるよ。それでもし自分の食い扶持さえ稼げない能無しだったら、それから捨てたって構いやしないさ」
姐さんがそう言うなら、と男は私の手を放し、抱きかかえて女の方へ近づく。強い香水の匂いが鼻をついた。
「あんた、名前は?」
頭が真っ白になった。この人達が何者なのか、とか。これから自分はどうなるのか、とか。そんなことはひとつも考えられなかった。ただこの空腹を満たしてくれるのなら、誰でも良かった。
ここで名乗らなければ、きっとまた道端に戻されてしまう。そうなったら今度こそ助からない、死んでしまう。あの頃、死というものを正しく理解できていたかは疑問だが、本能はやはり正しかった。死にたくない、助かりたい、生きたいと、そう本能が告げた。
必死に唇を震わせ、乾ききった喉から声を絞り出した。
「シル、ヴィア……」
女は、ひどい声だねと少し笑った。
それから、私は旅芸人の一座に加えられた。
私を拾ってくれた姐さんは、一座の中でも一番の稼ぎ頭で、踊りも歌もまるでこの世の者とは思えないほど美しかった。すっかり魅入られてしまった私をよそに、けれどあたしももう歳だからね、と姐さんは笑う。
「あと十年もすれば、体力も容色も衰える。その前に、あたしの技能を受け継ぎたいと思っていたのさ。あたしの身が朽ちるのは惜しかないが、培った技がこのまま消えていくのは惜しいからね」
「……此処には、他にも踊り子がたくさんいるのに、どうして私に?」
姐さんはくいと酒の入った器を傾けて喉に流し込むと、理由なんて無いさと呟く。
「敢えて言うなら、あたしがあんたを気に入ったから、くらいの理由さ」
ふと細くて長い指が、私の髪を梳く。姐さんの手は白くて、爪の先も綺麗に赤く染められている。身体からはいつも頭が痛むほど甘ったるい匂いがするのに、その手からは仄かに石鹸の匂いがした。
「綺麗な髪だね、シレジアの生まれかい?」
聞いたことのない単語に、私は首を傾げる。何処に居たのか覚えていない、そう言うと姐さんは、困ったように微笑んだ。
その微笑の意味を、私は姐さんが死ぬ時まで分からなかった。
私が十五になったある日、一座の金がなくなった。けれど、犯人はすぐに見つかった。姐さんの持ち物の中にあった大金が、なくなった一座の金と同じ金額だったからだ。
姐さんは盗人にされ、その罰として親方に毒を飲まされた。
毒に臓腑を焼かれたというのに、綺麗な死に顔だった。いっそ潔かった。
私は泣きじゃくりながら、昨夜の姐さんの言葉を思い出していた。
「誰もお恨みでないよ。あんたに仇討ちは似合わない」
私は知っていた。親方が姐さんを妾にしようとしていたことを。
けれど姐さんは、きっぱりとこう言ったのだ。
「あたしには、操を立てたお方がシレジアに居るんだよ」と。
踊り子が身体を売るなんて、珍しいことではない。この一座でも、何人かはそうやって稼いでいる子もいた。けれど、姐さんは芸しか売らなかった。その理由を知った時、あの日に見たきりだった姐さんの微笑の意味も何となくわかったような気がした。
姐さんはずっと、シレジアに行きたかったのだ。
愛するひとの居る土地に、行きたかったのだ。
私の髪を綺麗だと褒めてくれた優しい笑顔ができる場所に、行きたかったのだ。
それも叶わず、姐さんは死んでしまった。
そう思うと、後から後から涙が出てとまらなかった。姐さんを盗人にさせて殺した親方に、私は激しい殺意を抱いた。衝動のままに小刀を握ると、姐さんの言葉が甦る。
誰もお恨みでないよ。あんたに仇討ちは似合わない。
私は姐さんに取り縋って、声を放って泣いた。
姐さん、私には無理だよ。私は、姐さんみたいに出来た女じゃない。
今だって苦しくて悲しくて、悔しい。
ごめんなさい姐さん。ごめんなさい。
不肖の弟子で、ごめんなさい。
姐さんの埋葬が済んだ後、私は一座を抜け出した。
すぐに追手に見つかったけれど、後ろを振り返らずただがむしゃらに走った。
捕まれば、殺されてしまう。姐さんのように殺される。
姐さんに拾われた時のように、耳元で本能が告げる。
死にたくない、助かりたい、生きたいと告げる。
走って走って走りぬいて、ようやく追手を振り切って息を吐く。
気が緩んだ所為か、両足の裏がじくじくと痛いことに気づいた。
足の裏は真っ赤に濡れていて、赤い足跡が私の走ってきた道に貼りついている。
逃げた。私は、逃げたんだ。
「はは……あはは……」
くつくつと喉が鳴る。何か可笑しいわけでもないのに、私の口は狂ったように笑い声を吐き出した。私の笑い声が、夜空に響いた。
そのまま、どさりと柔らかい草むらに倒れこむ。身体がひどくだるい。先ほどまで耳元で煩く喚いていた本能は、綺麗さっぱり消えていた。
疲れた。
そう思いながら、私は目を閉じた。
朝早くに目が覚める。日が昇りきっていないためか、辺りはまだ薄暗い。
身体を起こすと、起きたかと頭上から声が振ってきた。
追手の男だろうか。けれど、追手なら私が目覚めるまで待っているはずがない。そろそろと顔をあげると、やはり男の顔に見覚えはなかった。
「誰、あんた」
「見ての通り、吟遊詩人だけど」
なるほど。言われてみれば笛も持っているし、服装もそれらしい。けれど、その男の容姿にはいまいちそぐわない。何処かちぐはぐな印象を受ける。
「どうして、此処にいるの?」
「女の子一人で野宿なんて危ねぇだろうが。野犬や夜盗なんてゴマンと居るんだし」
つまり心配してついていてくれたということか。だいぶお人好しな男らしい。
「それはどうも。でも、私は一座を逃げ出して追われている身なの。面倒事に関わりたくないならさっさと消えて頂戴」
こう言えば、いくらお人好しな人間でも去って行くだろう。けれど、その男はへぇ、と目を丸くしただけだった。
「奇遇だな、俺も逃げ出してきたんだよ。似た者同士ってやつか?」
そう言って、からりと呑気に笑った。同時に、さっと陽光が男を照らす。
男の容姿に、私は瞬時言葉を失った。
緩やかに波打った緑色の髪が、ふわりと風になびく。眸も、同じくらい綺麗な緑色。
私の髪も同じ色だが、それよりももっと綺麗な色だと思った。
そう、何度も想像した、シレジアグリーンと呼ばれる色はこんな色をしていた。
「あんた、シレジアの人?」
そう問うと、男は笑いを引っ込めて憮然とした表情を作る。そんな話はしたくないと言って、私に背を向けて去って行こうとした。
私は跳ね起きて、慌てて追いかける。
理由などない。敢えて言うなら、彼のことが気になったから、という程度のものだ。
もしくは、この男と居ればいつか、姐さんの愛したひとが居るというシレジアに行けると思ったのかもしれない。
姐さんはずっと、シレジアに行きたかったのだ。
愛するひとの居る土地に、行きたかったのだ。
「それなら、私が代わりに行ってもいい? 姐さん」
仰いだ朝の空は、生まれたての青色をしていた。
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