「死神になんてなるな、桃」
 それは、霊術院に入学する前、彼から散々聞かされた言葉だった。
 心配してくれているのか、それとも向いていないと思われているのか、どちらにしても自分を気遣って言ってくれていることには変わりない。無愛想な表情を崩さずにそっぽを向きながらそう言う幼馴染みの、不器用な優しさはちゃんと知っている。
「ごめんね」
 だから、以前のように謝った。学院を辞める気は毛頭ない。あと二年ほど通えば、晴れて死神になれるのだから。
 けれど、冬獅郎は眉間の皺を増やして言った。
「向いてないんだよ」
 学院で優等生だからとか、成績は常に上位だとか、そんなこととは関係なく向いていないのだと、彼は極めて真実を述べる。
 容赦ないその言葉に、気分を害することはない。彼に悪意が無いことだってちゃんと知っている。
「そうだね、でもいいの」
 だから眉ひとつ動かさずに、完璧な笑顔を見せる。
 心配してくれてありがとう。大丈夫だから。私はこんなに笑えるのだからと。
「じゃあ泣くなよ。何があってもだ」
 それは難しいと思う。自分はとんでもなく泣き虫で、我慢しようと思っても涙は後から後から湧き上がるのだから。
「うーん、頑張るよ」
 桃は幼馴染みの頭を撫でながら笑った。
 向いていなくても構わない。あのひとの役に立てるなら構わない。
 何を犠牲にしても構わない。
 確かに、そう思っていた。
 けれど、思っただけだった。
 その時、もし彼の言葉の意味に気づいていたなら、
 死神になることをやめただろうか。


「はぁ……」
 雛森は中庭の木に寄りかかり、大きく溜め息をつく。
 卒業まで、斬魄刀を持てなかったらどうしよう。悩み事は、その一点のみだった。
 いくら「斬」「拳」「走」「鬼」が優れていても、斬魄刀と対話・同調ができない者は死神にはなれないのだ。
 斬魄刀を発現させるには、まず己の精神世界に存在するものと対話をし、それに具体的な姿を見出す。そしてその名を呼び、自身の霊力と同調することができれば、契約は完了である。
 しかし、雛森の手にはまだ斬魄刀がない。精神世界で姿を見出すことすらできないでいた。
 卒業を間近に控えている六年生達は、各々の現状に応じた表情をしている。
 斬魄刀の名を知ることができず浅打を手にしている者も多いが、将来を有望視されている一組の生徒達は、ほとんど名のある斬魄刀を既に所持済みである。
 首席の吉良は既に昨年には侘助を、阿散井も数ヶ月前には蛇尾丸を手にしていた。
「はぁ……」
 二度目の溜め息をつき、雛森はがっくりと項垂れる。
 死神になれなければ、あのひとの役に立てない。ただ真っ直ぐにあのひとの背中を追いかけて努力してきたのに、こんな所で躓くなんて。
 死神になれなかったら。
 そう考えるだけで、足元が崩れていくような恐怖を覚える。
 それだけを目標にして頑張ってきたのに。
 目標が無くなったら、自分はどうすればいいのだろう。

 死神になんかなるなよ。

 そう言う幼馴染みは、ではどんな人生なら認めてくれるのだろうか。
 死神になることを諦めてしまった人生。
 流魂街に戻り、学院に入学する前と同じように畑を耕し、三度の食事の用意をし、鶏の世話をして、家の掃除と皆の衣類の洗濯。
 そんな、変わらない毎日をただ、何の目標も無しに過ごしていくのだろうか。
「それは、いやだな」
 あの生活も、とても楽しかったけれど。
 目標の無い生活は、今の雛森には考えられなかった。
「藍染隊長……」
 あのひとの傍に居たい。役に立ちたい。
 あの時助けて貰った、恩返しをしたい。
 涙が滲みそうになったが、幼馴染みの言葉を思い出して耐える。

 泣くなよ。何があってもだ。

 そうだ、これくらいで泣いてはいけない。
 まだ卒業まで時間はある。
「頑張らなきゃ」
 雛森は両頬を叩くと、気合を入れて校舎へと戻って行った。


 そうして悩んで見た夢に祖母が出てきたのは、やはり何処かで甘えたかったのかもしれない。
「おばあちゃん」
 疾うに亡くなったはずの祖母が、昔と変わらないまま柔らかく微笑んでそこに佇んでいた。辺りには真っ赤な梅が咲き乱れ、梅花の香りが花びらと共に降り落ちる。まるで血が降っているような光景の中、祖母は居た。
「おやおや、そんなに泣いて。どうかしたのかい、桃」
 泣いているという自覚はなかったが、触れてみると確かに頬が濡れていた。
「おばあちゃん、どうしよう」
 何があっても泣くなと、幼馴染みは言っていたけれど。
 懐かしくて大好きな祖母の顔を見た途端、涙が溢れてとまらなくなった。
 祖母の膝に縋り、どうしようとただ泣く雛森の背を、祖母は優しく撫でる。
「刀が見えないの。みんな、精神世界で斬魄刀と対話できるのに、私の中には刀が見当たらないの。どうしよう、おばあちゃん。刀が無いと私、死神になれないよ」
 不安を口にすると、怖くて怖くて仕方が無い。涙が出ると共に震えてくる体を、祖母はやはり優しく撫でてくれた。
「……桃や、己の精神世界なのに、刀となるものが存在しているのは、どうしてだか分かるかね?」
 問われて、雛森は答えに窮した。涙に濡れた顔をあげると、祖母は穏やかな顔のまま笑っている。
 そういえば、そういうものだと教えられただけで、どうしてなのかは考えたことがない。霊力が上がれば、自然と斬魄刀が現れるのだと思い込んでいた。
「斬魄刀は、元々人間の魂なんだよ」
「……え?」
「死神はね……魂を喰い潰すことで刀を持つことができるのさ」
 頬の涙を拭ってくれる祖母の手は、驚くほどの滑らかさだった。
「おばあ、ちゃん?」
 祖母の皮膚に刻まれていた皺が消えてゆき、束ねられた白髪がみるみるうちに艶やかな黒髪に変わる。眼前に居るのは最早雛森の育ての親ではなく、若く美しい女性だった。
「桃、死神になりたいかい?」
「……はい」
 気が遠くなる。目の前が赤く染まる。花が降る。甘い梅花の香りが体中を駆け巡る。
 あのひとの役に立てるなら、何を犠牲にしても構わないと。
 確かに、そう思っていた。今も思っている。
 けれど、思っただけだった。
「では、この魂を差し出そう」
 梅の花が舞う。紅梅が視界を染める。赤い。赤い。赤い。
 おばあちゃん。
 喉が渇き、声がかすれる。花びらが舞う。赤い花が舞う。むせ返るような、梅花の匂い。
「我が名は飛梅」
「とび……うめ?」
 そう確か、祖母の名前は梅といった。
「私はおまえの斬魄刀となる。転生の輪を外れ、おまえの精神世界で生き続ける」
 あぁ。
 喰い潰す。私がおばあちゃんを喰い潰す。雛森は、目を見開いて赤い世界を眺める。
「いや、いやだ……だめ、おばあちゃん!」
 輪廻転生の輪を外れれば、祖母はもう現世に生まれることができない。当然、尸魂界にも戻ってくることはできない。
 喩え雛森が霊力を失い、刀を必要としなくなっても、祖母は雛森が死ぬまで精神世界に一人存在し続ける。
 誰も覚えていない、誰も必要としてくれないような世界に、孤独なまま生き続ける。
 それが、魂を喰い潰すということだ。
「やめて、おばあちゃん! おばあちゃん!!」
「桃、強くなりなさい。もうあまり泣かないようにね」


 途端に赤い視界が白くなり、雛森は目を覚ました。
 天井が見える。いつもと何ら変わりの無い自分の部屋。
 相違点は、手に握られている刀のみ。
 雛森はごくりと喉を鳴らし、鞘から刀を抜く。そして、期待と不安をこめて名を呼んだ。
「……飛梅」
 瞬間、刀は赤く光り変形する。
 手が震え出し、その震えが体中に広がる。
 それが喜びなのか恐怖なのか、雛森は自分の感情を量りかねた。
 始解の言葉が頭に響く。弾かれたように外へ飛び出し、浮かんだ言葉を吐き出した。
「弾け、飛梅!」
 赤い光は炎に変わり、そのまま振り下ろすと炎が空をきって飛んだ。響いた爆発音に、寮内の生徒達が顔を出す。
「雛森、それおまえの斬魄刀か?」
「対話できたんだね、おめでとう!」
 阿散井と吉良が祝福してくれたが、雛森の心は晴れなかった。


「馬鹿野郎」
 眉をしかめた幼馴染みの前で、雛森は刀を握りしめて涙をぼとぼとと落とした。
「泣くなって言っただろうが」
「だって、私……おばあちゃんを……」
 何があっても泣くなと言っていた彼は、斬魄刀が元々人間の魂だということを知っていた。どうして教えてくれなかったのだと、雛森は彼を責めた。冬獅郎は少し顔を険しくしたが、何も言わなかった。
「桃、おまえ言ったよな? 死神になるって決めた時に」
 シロちゃん、私、死神になる。
 どうしてだと訊いた冬獅郎に、雛森は微笑んだ。
 救いたいのだと。
「現世で行き場を無くした虚や、流魂街で転生できずに彷徨っている魂を救いたいって、おまえ言ったよな?」
「……うん」
 その願いが実体験から来ていることも、冬獅郎は知っている。雛森は、身体を失って現世を彷徨っていたところを、死神に魂葬して貰ったのだという。
 冬獅郎は翡翠にひかる眸で雛森を見つめ、残酷に言葉を吐いた。
「誰かを救うっていうのは、誰かを犠牲にするってことだ。死神ってのはな、喰い潰した魂で他の魂を救う存在なんだよ」
 雛森は目を閉じる。幼馴染みの言葉が一句ずつ、自分を責めたてているように聞こえた。
 だから死神になるなと言ったのに。
 だから向いていないと言ったのに。
 犠牲の上で成り立つ救済なんて、おまえが耐えられるはずないだろう。
 そう、言われているような気がした。
 一層視界が滲み、膝の上に涙が音をたてて落ちる。
「泣くなよ」
 怒気を含んでいた幼馴染みの声は、急に悲しそうに変わる。
 その声音のまま、冬獅郎は叫んだ。
「そうやってずっと泣いてる気かよ。ばぁちゃんが転生を捨ててまで、おまえの刀になったんだぞ。無駄にするなよ、馬鹿桃!」
 雛森は両手で顔を覆う。頭がずきずきと痛んだ。斬魄刀を発現させた日から、そういえばずっと泣いていたことを思い出す。
「私……馬鹿だもん」
 なんと自分は愚かなのだろうか。
 泣いて何も解決などできるはずもないのに。
 あのひとの役に立てるなら、何を犠牲にしても構わないと。
 確かに、そう思っていた。
 けれど、思っただけだった。
 大事なものを犠牲にする覚悟なんか、なかったくせに。
 自分以外の何も、犠牲にしたくなかったくせに。
「シロちゃん……」
 幼馴染みの頭を引き寄せ、抱きしめる。懐かしい、家族の匂いがした。
 尸魂界に一人来た自分を拾ってくれた祖母の顔が浮かぶ。着物を縫ってくれた、髪を梳いてくれた、頭を撫でてくれた手を思い出す。
 皺だらけの祖母の手や微笑んだ顔が、とても好きだった。本当の祖母のように。
「私、死神になる。おばあちゃんを、無駄になんてさせない。絶対に、させないから」
 腕の中でこくりと頷く幼馴染みを見て、雛森は声をあげて泣いた。


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