最年少で隊長に就任した日番谷冬獅郎は、虚園討伐を成し遂げた。
首謀者である元五番隊隊長藍染惣右介を討ち取り、山本総隊長辞任後の総隊長の座をやはり最年少で目されていた。
地位もあり、実績もあり、人望もある彼は、不幸など何ひとつ無いように見えた。
激務を終え、久々に家に帰れる日が来た。昔は隊舎に住んでいたのだが、結婚してからは瀞霊廷内に家を買い、妻と二人そこで暮らしていた。尤も、仕事が忙しい時期は滅多に帰れず、独身時代と同じように隊舎で寝泊りしている日も多い。
今日も、残務があるのに家に帰れたのは、副官が気をきかせてくれたからだった。
隊長、もう十日も家に帰ってないですよね。後はやっておきますから、どうぞお帰りになって休んで下さい。
昔は仕事をサボりがちだった副官は、今では自ら自分の仕事もやってくれる。以前は考えられないことだったが、あの副官は他人の心の機微を読むのに昔から長けていた。上司である自分の顔色や眉間の皺の数や溜め息の色まで、あの副官は細かく分析しているに違いなかった。そして彼女の気遣いは自分にではなく、結婚生活らしいことをさせてやろうという老婆心故でもなく、ひとえに妻である後輩に向けられているのだろうことも理解していた。
「ただいま」
玄関の戸をがらりと開ける。家の中は、しんと静まり返って誰もいないかのようだ。
ひとつ溜め息をつき、日番谷は妻が居るであろう縁側へと足を運ぶ。
いつもと寸分違わない場所に、彼女は居た。縁側に腰掛け、膝上にいつも餌を求めてやってくる野良猫を乗せ、ゆったりと撫でながら自分の知らない歌を歌っている。
「桃」
あたたかい陽射しが降りそそぐ縁側で、桃は先程と変わらない動作で猫を撫で続ける。痩せ細った白い体躯は風が吹けば飛んで行ってしまいそうで、背に流れる黒髪は昔のような艶を失っている。落ち窪んだ眸を縁取る濃い睫毛だけが、昔の面影を残していた。
「桃」
再度名を呼ぶと、猫を撫でる手がぴたりと止まる。ぱちり、とゆっくり瞬きをして顔を上げると、とても幸せそうに彼女は微笑んだ。
「おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」
隣に腰をおろすと、桃は嬉しそうに寄り添ってくる。陽を浴びた身体はあたたかく、けれど凭れられても子どものように軽いのが悲しかった。
「今日はお仕事、大変でしたか?」
「あぁ、まぁな」
「ふふ、忙しいんですね。五番隊の皆は元気にしています?」
「優秀な副官がいなくなったから業務は滞りがちだけれどな」
「そんな、私なんて……でも、後任の彼は優秀だし、きっとすぐ慣れますよ」
桃が後任だと思っているその人物は既に二代ほど前の副隊長で、昨年何処かで殉職していた。
「なんか、申し訳ないなぁ……働いてもいないのに、こんないい生活ができて」
「気にしなくていい」
「ありがとうございます、幸せです」
幸せだと。
桃が言うたび、日番谷の心は重く沈んでいく。
この言葉には一片の偽りもないのだろうけれど。
そういえば、と桃の口が動く。
「日番谷くんはどうしています?」
日番谷は動揺を悟られないよう、瞬時目を閉じた。
「……十番隊で頑張っているよ」
「もし見かけたらでいいんで、あまり無茶しないようにって伝えてくれますか? 彼、昔から自分ばかり苦労を背負い込むんですよ」
「あいつは苦労だなんて思っていないよ」
「そうですか?」
「あぁ、おまえが心配するほどのことは何もない」
いつの間にか、桃の膝上で眠っていた猫はいなくなっていた。
陽はそろそろ没し始め、西の空を赤く染めている。
また、今日という日が終わる。
「もう夕方だな、飯にするか」
「あ、はい。準備しますね」
先に立ち上がって桃の手を取る日番谷に、桃は愛しげに言った。
「ありがとうございます、藍染隊長」
幸せだと。
桃が言うたび、日番谷の心は重く沈んでいく。
この言葉には一片の偽りもないのだろうけれど。
そのたびに日番谷の心には偽りが積もっていく。
漆黒の眸は、彼女が失った愛しい人のみを永遠に映しつづける。
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