それはレンスター城の中庭で、武器の整備をしていた最中のことだった。
「よぉ、リーフ様は元気か?」
顔を上げると、そこには灰色の髪をした少年が立っている。
「……アーサーさん」
「呼び捨てでいいよ」
ナンナはこんにちは、と挨拶をし、愛用している剣に再び視線を落とす。彼と関わるとろくなことが無いのは、過去にあった三度の機会で既に学んだ。
まず一度目。初めましてと挨拶をしたら、一瞥されただけで去られた。
そして二度目。従兄弟のアレスが、どういう経緯なのか彼から博打に誘われ、大負けしたと愚痴を延々と聞かされた。
更に三度目。肩に毛虫がついていると言われ、大慌てで取ろうとしたら「冗談だよ」と大笑いされた。
それらの経験より、今後は彼と遭遇しても無視を決め込もうと心に誓ったのである。
しかし、アーサーは挨拶を済ませてもナンナの前から動こうとしない。暫く誓いどおりに無視をしていたが、結局は盛大な溜め息と共に声をかける。
「何かご用でしょうか?」
「んー、用ってほどでもない」
見上げたアーサーの顔は、面白そうに笑っていた。自分を見ていて何か楽しいことでもあるのだろうか。
「それでしたら、どいて下さい。邪魔です」
「俺は邪魔じゃないなぁ」
ぷつん、とナンナの堪忍袋の緒が切れる。他の人間に言われたなら何とも思わないことでも、この男が言うと悉く気に障ってしまう。ナンナは美しい眉を吊り上げて怒鳴った。
「私が邪魔なのです! 誰があなたの都合など鑑みるものですか!」
けれどアーサーは怒鳴り返しも謝りもせず、いつぞやのように声をあげて笑った。ますます腹が立つ。彼は、自分をからかって遊んでいるのだろうか。
「何がおかしいのですか!」
いくら睨みつけても、アーサーはまったく意に介さない。そういえば、彼はシレジア育ちだと聞いたことがあった。かの国は風使いを多数輩出することで有名だが、この男はまるで風そのものだ。何を考えているのか、全く掴めずそして分からない。
ひとしきり笑い終えたアーサーは、笑った顔のまま言った。
「そうそう、たまにはそうやって大声出すと気持ちいいんだ」
「え?」
予想だにしなかった言葉を言われ、ナンナの大きな目がひとつ瞬きをする。
「あんた、最近何か気に入らないことがあっただろう?」
「…………」
誰の所為だ、と言いかけたが押し黙る。文句を言い返すことより、驚愕が胸を占めていた。
どうして分かったのだろう。アーサー以外の誰からもそのような指摘は受けなかったし、余計な感情を表に出さない自信もある。なのに、普段ろくに付き合いもない彼に、何故自分の不機嫌が理解できたのだろうか。
それを訊ねようとして口を開きかけると、一瞬早くアーサーが言った。
「悩みがあるなら、誰かに話した方がいい」
「別に、ありません」
ナンナはアーサーから、ぷいと視線を外す。関わり合いになりたくないと思っていたのに、何故か会話を続けていることが自分でも不思議だった。
ふぅん、とアーサーは一息つき、呟く。
「まぁいいけどね、俺には関係ないし」
関係ない、という一言が、確かな重さでナンナの胸に沈む。そんなことはない、彼こそ心労の元凶である。
そう言ってしまいたかったが、ナンナはそのように相手を非難することを善しとしなかった。
「えぇ。あなたには関係ないことです」
「ほら、やっぱり悩んでいるんじゃないか」
控えめな笑い声が、頭上から降ってくる。鬱陶しいと思うのと同時に、ふつふつと怒りが湧いてくる。それは、目の前の彼に対する感情ではなく、もっとずっと幼い頃から巣食っている憎しみに似た敵対心だった。
「あなたには関係ないと言ったでしょう。フリージの人間が、馴れ馴れしくしないで」
言い終わってから、さっと唇が寒くなる。今、とんでもないことを言ってしまった。
数秒俯いてから、ゆっくりと視線をあげる。アーサーは、まだそこに立っていた。
初めて会った時の、何にも興味の無さそうな表情で。
かくりと顎が震える。言葉が何一つ、口から出てこない。
アーサーは、そんなナンナを見て、ゆっくりと目を閉じる。
「あぁ、そう」
そう呟いたアーサーは、くるりと踵を返して立ち去った。
ナンナは、動けなかった。
リーフ様のお好きな絵本がありました。
悪い奴らに国を取られ、お城から逃げた王子様が、仲間と一緒に敵をやっつけるお話です。
仲間の中には、可愛らしいお姫様もいます。
リーフ様は、いつもその絵本を大きな声で読まれます。
そして、最後にこう仰るのです。
「この王子様が僕で、お姫様がナンナ。悪い敵は、ブルーム王だよ」
私は何度も頷いて、目をきらきら輝かせるリーフ様を見つめます。
このひとは、正義の王子様。悪いのは、ブルーム王。
今は負けていても、きっと将来リーフ様は強くなって、仲間達と一緒にフリージの手からレンスターを取り戻すんだ。
そう、信じていました。
もっと大きくなると、たくさん、ひとが死ぬのを見ました。
頭を撫でてくれた優しい兵士さんが、次の日真っ黒な塊になっていました。
杖の使い方を教えてくれた僧侶さんが、小さな子を抱きしめて泣き叫ぶのを見ました。
私の隣に居た騎士みならいの男の子が、目の前で額を割られました。
たくさん、泣きました。
大事なひとたちが死ぬのはいやだと泣きました。
どうすればいいのですか?
どうすれば、レンスターのみんなが死なない世の中になるのですか?
リーフ様は、仰いました。
敵を倒すんだよ。
みんな、倒してしまえばいい。
そうすれば、誰も僕たちを殺しに来たりしないよ。
妹になったジャンヌは、大きく首を縦に振りました。
フリージは敵です。憎い敵です。みんな、やっつけちゃいましょう。
ジャンヌは、そう言いました。私は、曖昧に頷きました。
リーフ様のお言葉に素直に同意できなかったのは、それが初めてだったかもしれません。
正しいとか間違っているとかではなく、何かしっくりこなかったのです。
私は数日前、フリージの兵士さんに会いました。
ひどい傷で、息も絶え絶えな、髭の生えた男の人でした。
私は驚いて、その場から離れようとしました。けれど、足が竦んで動けません。
男の人は、私を見て言いました。
「水」と。
頭が真っ白になりました。
私はほとんど何も考えられず、男の人の頭を抱き起こして持っていた水筒の水を飲ませてあげました。
ごくり、と喉が鳴り、男の人の目に涙が浮かびました。
私はその時、たぶん初めて思いました。敵も、人間なのだと。
男の人は瞼を閉じると、何度も言いました。「ありがとう、ありがとう」
私の目からも、ぼろぼろと涙が溢れました。今まで、こんなことはなかったはずです。
敵を剣で斬った時は、泣いたりなんてしなかったのに。
男の人は、そのままこときれてしまいました。
呆然と涙を流した後、私は罪悪感に襲われました。
どうして、背に括りつけた杖で回復してあげなかったのだろうと。
けれどそう思うことも、私に罪の意識を感じさせました。
敵に情けをかけるなんて、きっとみんなに叱られます。
フリージは憎い敵。リーフ様や私たちをレンスターから追い出した敵。
けれど、ずっと心の中でもやもやと渦巻くものがあります。
幼い頃リーフ様が大好きだった絵本の頁を、もう一度捲ってみました。
最後、悪い奴らを倒した王子様や仲間が、口々にこう言っています。
「やった やった あくはほろびた ばんざい ばんざい」
昔はこの結末を、何の疑問にも思いませんでした。
でも今は、私の腕の中で息絶えた男の人の顔ばかりが浮かびます。
どうしてなのか、分からないのですけれど。
アーサーの去った方に、ナンナは走った。
けれど見つからない。どっちに行ったのかと慌てて辺りを見回すと、聞き慣れた笑い声が背後からした。
「どうしたの、ナンナ。まさか迷ったとか?」
「リーフ様」
幼い頃から主君と呼んで慕ってきた少年が、そこに居た。
そういえば彼は、フリージ家の者達が軍内に居ることについてはどう思っているのだろう。昔から人一倍ブルーム王を憎んできた主君の考えを、ナンナは聞きたくなった。
「あの……リーフ様は、どう思われます?」
「ん、何が?」
「フリージの人間……アーサーとティニーが、同じ軍内に居る、と……いうことを」
声がだんだん小さくなり、顔も俯きがちにナンナは言った。リーフは少し黙った後、俯いてしまったナンナの頭を優しく撫でた。
「僕は、喜ばしいことだと思っているよ」
ほうっと、ナンナは大きく息をつく。何となく、そんな気はしていた。幼い頃から一緒に居たリーフは、けれどいつまでも小さな子どものままではない。フリージの血を継ぐ人間全員を憎むなどという行為を、彼がするとは到底思えなかった。
「そうです、よね。此処に侵略したブルーム王は憎いですけれど、アーサーやティニーにまでその責はありませんもの……」
「ナンナ、」
頭に置かれたリーフの手が、くしゃくしゃとナンナの髪を撫ぜる。昔は小さかったこの手の、なんと逞しいことだろう。このひとは、この成長した手で祖国を取り戻し、解放軍の盟主と手を取り合い、今また更なる高みへと昇っていくのだと思うと、ナンナは目の奥が熱くなった。
「きみが小さい頃、絵本で教えてくれた。王子様と仲間達が悪い奴らを倒して喜んでいる頁を指してナンナが言ったことを、僕は今でも忘れられない」
リーフが頭から手を離したので、掻き回された髪を撫でつけながらナンナは首を傾げる。絵本のことは記憶してているが、自分はそのことについて何か言ったことがあっただろうか。
覚えてないの、とリーフは少し残念そうに微笑みながら言った。
「王子様とお姫様が仲間達と一緒に両手を挙げて、喜んでいた。その後ろには、悪い奴らがみんな倒されていた。その絵を指して、きみは言ったんだ。
王子様が倒した悪い奴らも、同じ人間なのですか、って。
僕は、驚いたよ。その話をレンスターとフリージの争いに喩えていたから、余計にね。
あの時、初めて気づいた。僕が人間で、レンスターの民や兵士達も人間なら、敵だって同じ人間なんだって。当たり前のことで、当たり前すぎて、気づけなかったことだった」
「……そうだったの、ですか」
ナンナの頭の中に、ゆらりと一人の男の顔が浮かぶ。それはひどくおぼろげで、いつ見た誰の顔なのかさえよく思い出せなかったが、とても悲しい出来事に関係したような気がした。
「僕にそれを教えてくれたのは、ナンナだよ。だから、もし今アーサーやティニーとうまくいってなかったとしても、きっと大丈夫だって僕は信じているんだ」
からりと明るく笑いながら、それに、とリーフは付け足した。
「アーサーも、ナンナのこと気にかけていたみたいだしね」
「え?」
あの他人にはまるで興味なさそうな男が自分を気にかけていた?
まさか、と一笑に付した瞬間、先ほどアーサーと交わした会話を思い出す。
そういえば、あれは彼から話し掛けてきたのだったか。そしてわざと自分を怒らせる言動を取り、悩みがあるのかと訊ねてきた。それは、気にかけていると言うのではないだろうか。
リーフは思案に暮れているナンナに微笑み、続けた。
「さっきすれ違った時に、アーサーが僕に話し掛けてきたんだ。結構真剣な顔でね。
あんたのお姫様、何か悩んでいるみたいだから聞いてやれよ、って。
すごいよね、アーサーって。幼馴染みの僕でも分からなかったナンナの悩みに気づいたんだから」
「……リーフ様、なんですかその弛みきった笑顔」
元来笑顔を絶やさない性格の主君だが、今日は明らかに笑い過ぎだ。
「あはは、なんでもないよ。僕はナンナが幸せなら嬉しいから」
「なっ……わ、私はアーサーなんて!」
「あれ、そんなこと一言も言っていないけど。ふーん、これって結構脈あり?」
ナンナの顔が真っ赤に染まり、握りしめた手が小刻みに震え出す。
反論したいが、気のきいた言葉が思いつかない。そもそも、どう言えばいいか分からない。聡明だが色恋沙汰に疎いナンナには、否定するしか方法がなかった。
「だから、違います! 私っ……アーサーのこと大っ嫌いなんですから!」
「だ、そうだ。いい加減からかうのはやめてやれよ、リーフ王子様」
声がした方には、話題の渦中であるアーサーが呆れた表情をして立っていた。それを見たリーフは、「あーあ」と肩を竦めた。
「アーサー、本気にしないでね。ナンナって照れ屋なんだよ」
「ふーん。まぁ、どっちでもいいけど」
諦念を含んだ、何処か見下されているような印象を受けるアーサーの声に、ナンナは更に顔を赤くして灰色の髪の少年に詰め寄った。
「どっ……どうでもいいとはなんですか! 失礼でしょう!」
掴み掛からんばかりの勢いでナンナが迫ると、アーサーはその勢いに目を丸くして後ずさる。
「あ、まぁ……どうでもよくは、ないかな。どっちでもいいって言ったんだよ」
「揚げ足を取らないで下さい! 何がどっちでもいいんですか!」
「分からないのに怒ってんの?」
「そうです、いけませんか!」
その言葉に、アーサーが大声で笑い出した。あまりに盛大な笑いっぷりなので、今度はナンナがきょとんと目を瞬いて後ずさる。
ひとしきり笑ったあと、眦の涙を拭いながらアーサーは言った。
「好きの反対は無関心だろ。だから、好かれても嫌われても嬉しいってこと」
その言葉に、ナンナはまた頬を紅潮させては違うと連呼し続ける。
それを笑って聞いていたアーサーは、思い出したように「そうだ」と呟き、訊ねた。
「なぁ」
「……なんですか」
「あんたの名前、なんだったっけ?」
ナンナは一瞬ぴたりと止まり、それからわなわなと震え出し、城内に響くほど大きな声で、
「馬鹿―!」
と叫んで去って行った。
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