「雛森」
 振り向いて、彼の翡翠に輝く眸を見る。
 熱いまなざしは、泣きたくなるほどに真摯だ。
 それは、いつからだったのだろう。
 覚えていないほどに昔から、私は知らないふりをし続けた。
 昔のように呼びたくて、けれどその呼び名をごくりと呑みこむ。
 もう、呼んではいけない。
「日番谷くん」


 二つ結わえただけの髪型が、私はとてもお気に入りだった。
 本当に小さい頃は、髪を伸びるままに放置していて、構ったことはなかった。邪魔だと思うことは幾度かあったけれど、さして気にかかるほどのものでもなかったのでそのままだった。手入れのされていない黒髪は、流魂街の埃っぽさでぼさぼさだっただろう。
 そんな私を見かねて、おばあちゃんがこっちへいらっしゃいと微笑む。蓄えてある甕の水で頭を洗われ、櫛で丁寧に髪を梳かれた。頭の中央で髪は半分ずつに分けられ、それを結わえられた時にはとても嬉しかった。それだけで何だか変わったような気がする自分の顔を鏡で見て、そして幼馴染みに見せに行く。

 ねぇ、シロちゃん。

 私の半分ほどしかない背の小さな彼が、目を丸くして私を見上げる。
 その反応に気をよくした私は、その場でくるりと回ってみせた。

 似合う?
 ……まぁな。
 もう、もっと素直に褒めてよ。お嫁さんになってあげないぞ?

 笑いながら幼馴染みの目線の高さに顔を持っていくと、髪を結わえていた紐を片方ほどかれる。

 馬鹿桃。

 その言葉を聞いた途端、私の視界で陽炎がゆらりと現れる。
 あつい、と思った。同時に、どうしようもない違和感が私の胸に立ち昇る。
 これは、なんだろう。私は乾いた唇を震わせ、干からびた喉から声を絞り出した。

 シロちゃん?

 私の声に振り返ることなく、彼は立ち去っていった。
 ほどかれた髪が風になびき、片頬に当たった感触だけが鮮明だった。
 あの時からだったのだろうか。それとも気づかなかっただけで、本当はずっとずっと以前から彼は、あんな目をしていたのだろうか。
 ぼんやりと過去を思い返していると、そっと幼馴染みの手が伸びる。ふいに、髪紐をほどかれた時の手が甦る。また、ほどかれてしまうのだろうか。
 けれどその手は、お団子の飾り紐に触れるか触れないかのところで止められた。
 成長が済んでいない指の形がとてもかわいらしくて、無性にいとしい。
「髪型、変えたんだな」
「……日番谷くんも」
 昔の髪型を変えたくはなかった。あれも、おばあちゃんが私に遺してくれたもののひとつだったから。
 けれど、あのひとに頭を撫でられたくなくて変えた。もう自分は子どもではないのだと言いたくて、頭を撫でるには少し邪魔な位置に髪をまとめた。
 彼も、そうなのだろうか。
 昔のように頭を撫でようと動かした手は、私の気持ちのままにためらい、宙を泳ぐ。
 もう、彼の頭は撫でられない。銀色にひかる立てられた髪はまるで鋭利な刃物のようで、触れれば突き刺さってしまいそうだ。きっと、とても痛いのだろう。
「ごめんね」
 頭を撫でる代わりに、彼をそっと抱きしめる。息を呑む音が聞こえた。懐かしい温もりに、都合の良い錯覚を起こしそうになる。シロちゃんと呼んでいて、桃と呼ばれていた、あの頃と何も変わらないと思ってしまいそうになる。
 幼馴染みという、関係。
 それは、たとえ血のつながった家族でなくても、彼の傍に居て良いのだという免罪符になるかのように思えた。
 そっとそっと、大切にその関係を維持していたかった。あやふやで、あいまいな関係を、いつまでもずっと。
「雛森?」
 彼は何気ないふうを装って、私を呼ぶ。滑稽なほど必死に私への思いを隠して、震えた声で私を呼ぶ。
 いつからだったのか、覚えていない。いつからか、私を見る彼の目の、声の、温度が高くなった。それを隠すように彼は私に素っ気無い態度を取り、私もそのまま気づかないふりをし続けた。
 そんなものは見たくない。そんなものは望んでいない。
 知らないふりをし続けた。ずっとずっと、彼を苛立たせるような鈍感さを装い、へらへらと笑っていた。
 けれど、だめだった。彼の温度は上がり続けるばかりで、一向に冷める気配を見せない。私は、それでようやく気づいた。もう、戻れないのだと。
 私は、もう髪をふたつに結うことはない。
 彼は、もう髪をおろすことはない。
 少なくとも、お互いの前では。
 優しく生ぬるかった幼馴染みという関係には、もう戻れない。
「ごめんなさい」
 彼に好きだと告げられたなら、好きだと言っても良かった。私は彼以上に大事なひとはいなかったから、残りの人生をずっと共に過ごして死んでいってもいいと思っていた。この気持ちを恋愛感情だと偽れるくらいには、彼のことが好きだった。
 けれど、それももうできない。
 本当に好きなひとができてしまったから、私にはもうそれもできない。

「私は、日番谷くんがすきだったよ」

 彼は私の腕の中で力なく笑い、過去形ならいらねぇよと呟いた。


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