日番谷くん。
 ねぇ、日番谷くん。
 藍染隊長がね、
 ウチの隊長がね、

 いないの。

 どうしてかな。
 どうしていらっしゃらないのかな。
 私、副隊長なのに。
 どうして藍染隊長がどちらに行かれたか、
 知らないのかな。

 ねぇ、日番谷くん。
 日番谷くんなら、知ってる?
 同じ隊長さんなら知ってるんでしょう?
 どうしてなの、ねぇ、
 教えてよ。

 日番谷くん。


 蝋燭をつけないでいる夜の部屋は、墨を溶かしたように暗い。
 今夜は月も出ていないから尚更だ。
 それでも、目が慣れてくると判別がつく。
 雛森の黒髪と、死覇装の黒と、夜の闇。それぞれ違う色をしている。
 どこからか、緩やかに風が入る。ふわりと花のような香りが鼻孔をくすぐった。
 流魂街に居た頃から変わらない、雛森の香り。
 抱きついてくる雛森の肩越しに見える部屋の壁には、十の文字が染められた隊長羽織がかけられている。白い羽織はそれだけで、闇夜にぼうと浮かび上がっていた。
 日番谷くん、日番谷くん、
 そう自分を呼ぶ声がひっきり無しに聞こえる。どう返事をしようかと思いあぐねて、もう半刻は経過しただろうか。
 雛森の肩が細かく震えている。日番谷の右肩は、彼女の涙と吐息で熱く濡れている。昔から、自分に泣きついては着物をぐしょぐしょに濡らした。肩の部分だけ濡れた着物を見て、日番谷はそのたびに願うのだ。
 雛森に、悲しい涙を流す日が来なくなることを。
 そしてその日は、近いうちに来ると思っていた。つい、最近までは。
『ねぇ、藍染隊長がね……』
 そう言って笑う幼馴染みを見るたび、ちりちりと胸を焦がす感情があった。
 その名前を知らないわけではなかったけれど、そんなわけはないと打ち消してきた。
 これは違う。雛森に、こんな感情を抱くはずがない。今まで家族のように育ってきたから、彼女が離れていくのが淋しいだけだと思い込んだ。
『そうか、良かったな』
 そんな感情はおくびにも出さず、幸せそうに笑う幼馴染みを見てそう言ってやる。
 もう、雛森に自分は必要ない。藍染がきっと、こいつを幸せにしてくれるだろう。
 それでいいと思った。おまえが幸せに笑える場所があるならそれでいいと、見上げる位置にある頭を撫でてやった。
 ありがとう日番谷くん。雛森は嬉しそうに笑った。
 その笑顔がずっとあり続ければ、自分が必要なくても構わない。雛森の笑顔を曇らせないただそれだけの為に、死神になって隊長の地位にまで昇りつめたのだから。
『もう、俺がいなくても平気だな』
 言葉にせずとも良かったけれど、自身に言い聞かせる為、そして雛森の反応を確かめたくてそう言うと、笑っていた少女はみるみるうちに涙を眸に溜めた。
『そんなこと、言わないでよ。いなくならないでね?』
 呼吸が苦しくなるほどに抱きつかれ、雛森が泣きながら訴える。日番谷がずっと一緒でどれだけ心強かったか、どれだけ嬉しかったか、どれだけ日番谷のことが好きなのか。
『だいすきだよ』
 雛森に対する感情の名前を知らない幼い頃からずっと、そう言われるたびに嬉しくて、そして淋しかった。今はその言葉を、泣き出したくなるような気持ちで聞く。
 だったら行くな。
 藍染のところになんて行くな。
 ずっと一緒に居ろよ。
 これからも、ずっと。
 体中が叫びだす悲鳴を、声には出さずかろうじて飲み込む。聞き分けの悪い子どものようで、情けなくなった。所詮、まだまだ自分は子どもなのだ。
 誰よりも早く大人になりたくて、必死に前だけを見て、天賦の才能に甘んじることなくがむしゃらに努力をした。先に歩いていった幼馴染みの背を追い駆け、追い越して、護廷十三隊の隊長になるまでに力をつけた。けれど、どうしたって歳の差だけは埋まらない。それは同じ数だけ経験の差となって、目の前に突きつけられる。雛森に対して抱く子どもっぽい嫉妬や独占欲を力任せに抑え込むことはできても、うまく付き合うことはどうしたってできない。それは、自分がまだ子どもだからだ。
 雛森の幸せを、気の遠くなるような長い間ただひたすら願っていた。彼女を何からも守れるように、力を求めそして手に入れた。
 見返りが欲しかったわけではなかったけれど、少し、ほんの少し望んでしまった。
 このままずっと、一緒に居られれば良いのにと。
 雛森が、いなくならないでと泣いている。自分は、その願いを全て叶えてやるのだろうと日番谷は思う。けれどいつか、そう遠くないいつか、雛森は自分のことなど思い出しもしなくなる。いなくならないでと言う雛森は、そのうち自分からいなくなる。
 けれどそれは、仕方のないことだ。ずっと一緒に居たいなんて、そんな願望は叶うはずがない。家族はそれぞれに新しく家族を作り、離れていくものだ。それを、淋しいと思うことがおかしいのだから。
 気持ちを吐露する代わりに、よく泣く姉さんだなと弟の顔をして苦笑する。雛森はくぐもった声で、ごめんねと謝った。
 雛森は昔から、泣きたくなったら日番谷のところに来る。シロちゃんと呼ばれていた時からそれはずっと変わらず、よく十番隊舎に来ては目の前で泣いた。
 今も、自分に縋って泣いている。
「藍染……隊長」
 いとしいひとの名を呟きながら泣いている。
 その姿に言うべき言葉を持ち合わせていない日番谷は、心の中で懺悔を繰り返す。
 雛森。
 雛森、ごめんな。
 おまえをこんなに泣かせることになるなんて、思わなかった。
 俺がもっと早く気づいていれば。藍染達の企みに気づいていれば。
 おまえをこんなに傷つけることもなかったのに。
 おまえを泣かせたくなんか、なかったのに。
 誰よりも幸せに、ずっと笑っていて欲しかった。
 幸せな世界で綺麗なものだけ見て、いつか命尽きる日まで笑って生きていてくれればよかった。
 藍染の居るところがおまえを幸せにできる場所だと、そう思っていたのに。
 まもりたかったのに。何を捨てても、まもりたかったのに。
 まもれなくて、ごめんな。
「雛森」
 なぁに、と雛森が顔を上げる。漆黒の眸が涙に濡れて光った。
「藍染が、好きか?」
 少しの間があった。それでも、雛森はこくりと頷いた。
「……うん。尊敬してるし、憧れてるし」
「俺のことは、好きか?」
 雛森は笑う。涙と、苦しみで歪みながら、それでも笑う。
「だいすき、だよ」
 虚ろに笑う雛森は、しかし泣くのをやめない。ぼろぼろと零れる涙を、指で拭ってやる。けれど拭いきれずに、落ち続ける雫は日番谷の胸を濡らしていく。この涙を止めてやれないのが、悲しくて悔しい。
「じゃあ、俺が藍染を殺したら、俺を嫌いになるか?」
 ひくり、と雛森の周囲の時間がとまる。黒い眸が見開かれ、空洞のように見えた。
 それは、混乱したまま飛梅を自分に向け、振るっていたあの夜の目だった。
 訊ねなくても分かっている。あの時に、はっきりと分かった。藍染と自分、どちらかを選ばなければならないのなら、雛森は最終的に藍染の手を取るということを。
 虚園に行った藍染を、自分はきっと殺すだろう。
『藍染隊長を、助けてあげて』
 そう言った幼馴染みの願いを聞かず、殺してしまうだろう。
 自分は、あの男を許しはしない。
 大事な幼馴染みの尊敬を、憧れを、信頼を裏切り、一生ものの傷をつけたあの男を決して許しはしない。
 そしてその感情はそのまま、雛森から自分へと返ってくる。
 藍染を殺した日番谷に、雛森はこう言うのだ。
 許さない。殺してやる。再び飛梅を向けて、そう言うのだ。
 その未来は確定された現実として、目の前に差し出されている。
 藍染を尊敬し、憧れている雛森は、一分の狂いもなく自分を殺しにくる。
 そうなったら、今度は避けないでいよう。
 それでこいつの気が済むのなら、おとなしく殺されよう。
「日番谷くん、」
 雛森は日番谷の頭を引き寄せ、抱きしめる。規則正しい鼓動が聞こえた。この心臓の少し横に、藍染がつけた刀傷があるのだろう。
「……私も殺してよ」
 ふふ、と小さく笑う雛森の声が聞こえた。殺して、という言葉が、呪いのように耳から離れない。その言葉に、思わず溜め息をついた。
 おまえは本当にバカだな。昔から肝心なところが抜けてやがる。おまえ今まで、俺のことちゃんと見てきたか?
 殺せるものなら、もうとっくに殺している。藍染の仇だと言われたその時に、こいつを殺している。けれどできない。それだけは絶対にできやしない。
「殺してよ、ね、日番谷くん」
「……おまえが俺を斬ったら、殺してやるよ」
 雛森が笑う。無理だよ、私が先に斬っちゃったら、殺して貰えないじゃない。
 あぁそうだ、同時ならいいね。ねぇ、
「いい考えだと思わない?」
 雛森が笑う。以前はしなかった笑い方で笑う。幸せそうに微笑んでいた幼馴染みは、もう何処を探してもいないのだと唐突に思った。
 あの男が、奪っていってしまった。幸せな世界で綺麗なものだけ信じていた幼馴染みを、藍染が攫っていってしまった。
 憎悪が湧き上がる。ずっとずっと気が遠くなるほど昔から、ひとつだけ大事にしていたものをぐちゃぐちゃに壊された。あいつに執着はなく、それこそ道端の石ころを蹴るような無感動さで、大事なものは呆気なく壊された。
 憎い。殺してやりたい。
 眩暈がするほどの憎悪の中、日番谷はふと思う。
 何のために生きてきたのか。
 自分を抱きしめて泣きながら笑う、こいつをまもるためではなかったのか。
 そのためだけに、生きて、強く、誰よりも強くなろうとしたのに。
 まもれなかった。それならば。
 何のために生きてきたのか。なぜ今もまだ生きているのか。
 そんな考えが絶望的なほど強く、日番谷の思考を支配する。
「そうだな。悪くない」
 生まれ変われば、この記憶を持っていることもない。全て捨ててしまえる。子どもっぽい嫉妬も、独占欲も、狂おしいまでの怒りも全て。
 ただ、この気持ちは告げられぬままに消えてしまうのかと思うと、少し残念だった。
 雛森は笑う。艶やかに、美しくそして狂気をはらんで笑う。
 ただただ虚ろに笑う彼女は、けれど泣くのをやめない。
 何がかなしいのだろうか。それとも、うれしいから泣くのだろうか。
 泣くのをやめないまま笑う。そんな幼馴染みの背を日番谷は優しく撫でた。
 雛森に抱かれたまま、日番谷は目を閉じる。幼い頃から慣れ親しんだ温もりに身を委ね、いっそこのまま刺し殺されても構わないと思った。
 藍染の名を繰り返していた雛森の口が、いつの間にか違う単語を呟いている。
「だいすきだよ、だいすき」
 いつも嬉しくて淋しい気持ちにさせるその言葉は今、日番谷の心を限りなく悲しくさせた。雛森は今どんな気持ちで、自分にすきだと繰り返し言っているのだろう。
「あぁ、知ってる」
 それは恋でも愛でもなく、悲しくなるほどに意味のない言葉だけれど。
 きっと日番谷が雛森に同じ言葉を言っても、届くことはない。
 最期まで届かぬままに消えてしまうことが、やはり少し残念だった。
 雛森の涙が、ひっきりなしに耳の裏に落ち、首筋を流れる。いつもは肩だけ濡れる着物は、既に何処もかしこも濡れていた。雛森はこのまま泣いて泣いて、この部屋は涙で満たされてしまうのではないだろうか。
 このまま雛森の涙で海ができたら、一緒に沈んで溺れてしまおう。
 目を閉じながら思い出したのは、流魂街に居た頃の懐かしい風景だった。


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