シレジアに滞在して、もう幾月だろうか。
暦が秋に変わると急に寒くなるとは聞いていたが、故郷では考えられない時期の降雪に、ノイッシュは鼻を赤らめてくしゃみをひとつする。
寒さに弱いので、幼い頃はよく熱を出したものだ。故郷の冬でも、手がかじかんで槍が握れなかったことが幾度かあったことを思い出す。
「よ、風邪か?」
「……いえ、寒さに弱いものですから」
背後から声をかけられたので、振り返りながら答える。そこにはつい先日、この寒い国の王子だと判明したレヴィンがいた。
「この国の寒さは厳しいからな、気をつけろよ」
「ご忠告感謝します。では」
頭を下げてから、距離をとって離れる。目上の者に対する言葉遣いや態度は、彼の表情を幾分曇らせることにも気づいていた。しかし生来真面目なノイッシュには、身分を知る以前と同じように接することなど考えられない。
アグストリアに居た頃は、吟遊詩人だと思っていた彼と共に酒を飲んだこともあった。ノイッシュは大抵アレクに付き合わされるのだが、豪放な悪友はレヴィンと気が合うらしく、三人で飲むことも多かった。
ある日、アレクは野暮用があると言って早々に抜け出したことがあった。自分で呼んでおきながら困った奴だと溜め息をついた間に、代理だと言ってレヴィンがやってきた。
思えば二人で酒を飲んだのは、後にも先にもあれっきりである。
酒を酌み交わしながら世間話のついでに、各国を巡った先で何か面白い話はあったかと訊ねると、レヴィンは嬉しそうに笑って語り出した。吟遊詩人を自称するだけあって彼の語り口はうまく、次々に飛び出してくる話は予想以上に面白かった。それを楽しく聞いているうちに酒が回ってきて、そろそろ切り上げようと思った頃、彼はこんな質問をしてきた。
「シグルドって、おまえから見てどんな主君なんだ?」
酔っ払った頭では、その問いの意味が正確に理解できなかった。
「シグルド様はシグルド様だ。俺から見てもおまえから見ても同じだろう」
その答えに、レヴィンは声をあげて大笑いした。向こうもだいぶと酔っていたのかもしれない。
「そうだよな。俺は貴族なんて大っ嫌いだが、あいつには好感が持てる。おまえもそうか?」
「いや、そんな畏れ多い感情は抱いていない。シグルド様は武術に秀で、明晰でお人柄も清廉潔白な素晴らしいお方だ。心から尊敬できるお方だからこそ、俺は終生の忠誠を誓ったんだ」
その答えに、レヴィンはへぇと感心したように頷く。
「我が剣と我が命は主君と共にある、ってやつか……なぁ、ノイッシュ。
これは酔っ払いの吟遊詩人が言うことだから、聞き流してくれ。
もしも、な。もしも、おまえの主君が国を裏切ったら、どうする?」
驚いて、レヴィンの顔を見る。深く考えないでくれ、酒の席での戯言だからと言われたが、灯火に照らされた彼の顔はひどく悲しそうだった。
その時は、そんなことなど有り得ないと一笑に付したのだが、今では笑い話にもできない。ノイッシュの主君シグルドは、父バイロン卿と共にクルト王子を殺害し、王家転覆を図った反逆者の烙印を押されてしまったのだ。
『シグルド様は、祖国に裏切られた』
レヴィンに言われたこととは反対だが、有り得ないと思っていたことには違いなかった。
そして祖国から叛意ありとされた現在、故郷シアルフィはどうなっているのだろう。両親や兄弟のことを思うにつけ、ノイッシュは胸の休まる日が無かった。
「おーい、ノイッシュ」
緑色の髪を、布でまとめた同僚が手を振る。ノイッシュから見れば珍妙な髪型だが、本人は商人から教えて貰ったんだと喜んでいた。とある地方の流行だと言っていたような気がしたが、昔のことなのでよく憶えていない。ふいに、訊いてみたくなった。
「そういえば、その髪型って何処の流行だった?」
「あ? どうしたいきなり。俺も詳しくは知らねぇよ」
妙な質問だと思ったのか、アレクは眉間に皺を寄せる。けれど、この友人はあまり細かいことにこだわらない性質だ。
「レヴィンなら知ってるかもな。あいつ、俺と似たような髪形だし」
俺の方がカッコいいけどさ、と笑う友人に、今度はノイッシュが眉を顰める。
「アレク……王子を呼び捨てにするなよ」
「っといけね。まだ癖が」
口を両手で塞ぎ、周囲をきょろきょろと見回す。確かに、あの天馬騎士の少女にでも聞かれたら大変だろうなと、ノイッシュはこっそり苦笑した。
「しかし王子様とはね……もう気軽に飲みにも誘えねぇぜ」
「当然だ。一国の王子が俺達のような一介の騎士と対等に付き合っていては、周囲に示しがつかないからな」
「お堅いねぇ、おまえは」
「あの方が風変わりなんだ」
一国の王子であり、聖痕を受け継いだという第一王位継承者でありながら、跡目を継ぐことを放棄し、身分を吟遊詩人だと偽って諸国を放浪していたレヴィン。あの天馬騎士の少女が迎えに来ても、自分には関係ないの一点張りで、頑として国に帰ろうとはしなかった。
それならば王子が放浪していても大丈夫なほど平和な国かと思えば、内乱の一歩手前という非常に危うい事態である。ノイッシュは、ただ開いた口が塞がらなかった。
「何を考えておられるのか分からない方だ。ご自分の責任も果たさず逃げ出すなんて……人の上に立つ者としての自覚が無いとしか言えない」
「おまえ、それはちょっと言い過ぎじゃ……」
アレクの発言が終わるか終わらないかのところで、ぱん、という小気味良い音が響く。後頭部を叩かれたノイッシュは、後ろを振り向いた。さっきから何度も思い出していた、天馬騎士の少女が怒りに顔を赤くして立っている。長い緑色の髪がさらりと流れ、今日は緑髪の人にばかり出会うなと、場違いな感想が頭をよぎった。
「……何をする」
彼女は発言より先に手が出てしまったことを後悔しているような表情を見せたが、すぐに目に力を入れて自分を睨んでくる。
「しゅ、主君を侮辱することは私が許しません! そのお言葉、取り消して下さい!」
「…………」
アレクは隣でおろおろと慌てている。発言のフォローをしようと必死に言葉を探しているのだろう。ノイッシュは、先に行っていてくれとアレクをその場から離れさせた。
「悪いが、取り消すことはできません。無礼は侘びましょう。けれど、言ったことに偽りはありませんから」
そう言うと、フュリーの目の端が涙で滲む。女性相手に言い過ぎたかとノイッシュは内心狼狽するが、変わらない表情はそれを表面には出さない。
「何も知らないくせに、勝手に判断しないで!」
泣き崩れるかと思った彼女は、口を真一文字に結び、もう一度自分を睨み据えてから叫んだ。
「あなたの言うようにレヴィン様が無責任なお方なら、そもそも王位争いなんて起こりすらしなかったわ! 上に立つ自覚がおありにならなかったら、民が熱烈にレヴィン様の即位を望むはずがないわ! あなた、そんなこと知らないでしょう!? あの方がどんなにシレジアにとってかけがえのない方か、どれだけ皆に愛されているかなんて、何も知らないでしょう!?」
握りしめた彼女の拳も声もぶるぶると震え、全身で怒りを表現している。決壊しかかった涙腺は、辛うじて堰きとめられていた。
その顔を、ノイッシュは見たことがあった。
それはまだ騎士見習いであった頃、シグルドが通っていた士官学校でのことだった。
他のグランベル貴族の騎士見習い達が、目聡くノイッシュを見てからかってきたのだ。
『シアルフィなんて田舎者が』
『シグルドなんてどうせ田舎のお坊ちゃん気取りだろう』
『要領も悪いって聞いたぞ』
『おまえも大変だね、主君が愚鈍だとろくに出世もできねぇんだぞ』
その頃はまだ、他人の言葉を流す余裕があるほど大人ではなく、無力に泣いて済ませるほど子どもでもなかった。彼らに口々にそう言われた瞬間、ノイッシュはその中の一人に掴みかかっていった。
騒ぎを聞きつけ、シグルドがその場に現れた後、ノイッシュは賛辞と叱責を同時にされた。
『私のために怒ってくれたのか、ありがとう』
『けれど、その程度のことで相手に手を出すなんてことはやってはいけない。外で立って反省していろ』
士官学校の前で立ちながら、ノイッシュは水溜りに映った自分の顔を見た。
その時の顔と同じ表情を、目の前の彼女はしていた。
そうか、とノイッシュは心の中で頷く。
自分も彼女も、自身より主君を大事に思っている騎士なのだ。
レヴィンは言った。もしも、おまえの主君が国を裏切ったら、どうする、と。
自分はもし主君が国を裏切ったとしても、主君のことを信じて忠誠を貫く。それはきっと、彼女も同じなのだろう。国を二年も留守にしたという裏切りにも関わらず王子を探し出し、断られても再三説得していた彼女は、いつかきっとレヴィンがあるべき場所へと戻ってくれると信じて疑っていなかったのだろう。
自分があの日、シグルドを中傷されて怒りを抑えられず掴みかかっていった時と同じような気持ちで、彼女もまた、自分の主君に対して無礼なことを言う自分に怒ったのだろう。
「あなたも、騎士だったな。主君のためなら命をも賭ける、騎士」
「え……えぇ?」
何を言っているのか分からないとでも言うような、当惑した表情を見せられる。同じ騎士でも無表情な自分と違い、彼女は表情が豊かだと思った。
「けれど、やはり取り消すことはできません。それは、これからレヴィン王子がこの国にどう関わっていかれるかで判断させて貰いますので」
「……そう、ですね」
フュリーの頬から、赤みがひいていく。少し落ち着いたのだろう。
「な、何も知らないくせになんて偉そうに申しましたけれど、そういえば知る手段なんてありませんでしたもの。あの、ノイッシュ殿……感情に任せた無礼な発言を、どうぞお許し下さい」
今度は羞恥からか耳まで赤くなったフュリーが、ぺこりと頭を下げる。意外と素直だなと、ノイッシュは彼女の印象を改めた。
「いや、無礼はこちらの方です。どうかお気になさらず」
お互いに頭を下げながらノイッシュは、この少女と自分は似た者同士かもしれないと、何となく思った。
けれど、お互い謝り続けるのではキリがないと思い、思い切って話し掛ける。
「フュリー殿」
「は、はい」
「槍の稽古、お手合わせして頂けますか? 寒いので体を動かしたいのです」
話題転換がうまくいったのか、フュリーはにっこりと微笑む。
「私でよろしければ、喜んで」
そして二人が肩を並べて鍛錬所に行く姿を見たアレクは、物陰でこっそり胸を撫で下ろしていた。
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