「お母様、これはなぁに?」
 古ぼけた、しかし立派な美しい杖を指してラナは言った。
「これはね、お父様の形見ですよ」
 母親のエーディンは、幼子の頭をふわりと撫でて言った。バーハラの悲劇から数年後、砂漠に出向いたシャナンが見つけて持ち帰ってくれた物だった。
 ふぅんとラナは首を傾げ、どんな杖なのですかと無邪気に問う。父の顔を知らないラナは、母のように悲しむことはできなかった。
 エーディンはゆったりと微笑み、そして呟く。
「死者を生き返らせることができるそうよ」
「……本当ですか?」
 ラナは即座に顔を顰めた。母の言葉を疑うわけではないが、死者が甦るなんて御伽噺の世界の中だけのことだとラナは思う。
 そうね、嘘かもしれないわね。ぽつりとエーディンの言葉が落ちる。
 みるみるうちに美しい顔が翳り、そして泣き出す寸前の子どものような表情をした母に、ラナは罪悪感を感じた。何か悪いことを言ってしまったのだろうか。
「そう、きっと……生き返す力などないわ」
 ラナの手から埃をかぶった杖を受け取り、しげしげと眺める。そして、窓から見えるイザークの澄んだ空へと視線を移した。
「だって誰も、生きてなどいないのだから」
 空に向けられた母の鳶色の眸は、何か懐かしいものを見るかのように安らいでいた。

 それでも戦に出てティルナノグを離れる際、ラナは母からこの杖を託された。
 あなたなら使えるかもしれないからと言われて。
 けれど、できるなら使う機会が訪れないことを願った。誰かが死んでしまうことなんて、無ければ良いと。
 ティルナノグでは、敵であったヨハン・ヨハルヴァ兄弟を味方につけたのが幸いしたのか、戦死者は出なかった。
 けれど、通称死の砂漠ではそうもいかない。暗黒魔道士や暑さにやられ、何人かは命を落とした。砂漠を越えて辿り着いたマンスターで、フリージの精鋭が扱う強力な雷にまた何人かは命を奪われた。レンスターを奪還した時には、軍の人数は砂漠を越える前の半数に減っていた。
 ラナは血が滲むほど唇を噛む。魔力の続く限り杖を振るい、体力の続く限り傷ついた兵士達の看護をした。それでも救えなかった命の、何と多かったことだろう。死にたくないと泣きながら、その声の細くなっていくのを何度見送ったことだろう。
 あなたなら使えるかもしれない。
 こときれてしまった兵士の前で祈りを捧げていたラナは、その言葉をふと思い出して母から託された杖を振ってみた。幼い頃から母の教えを受け、杖の扱いも人後に落ちない自信はある。しかし、この杖だけはどうしても発動させられないでいた。
 何度も杖に魔力をこめようと唸り、少し光ったかと思うと瞬きする間に消えてしまう。それならばと、自分より魔力の高いユリアに持たせてみたが、やはり発動しないままだった。それでも諦められずに杖を握り、二度目の朝を迎えたところで、やはり自分に人を生き返らせることなどできないのだと、ラナは憔悴しきった頭で考えた。
 トラキアの竜騎士が空を飛び交う頃には、ラナは誰かを生き返らせようなどという考えを全く持たなくなった。死んでしまった人間を生き返すなど、所詮は御伽噺の中でしかないことなのだから。
 そのうち、マンスターの勇者と呼ばれたセティや、幼いながら膨大な知識を持つ聖職者コープルなどの杖に明るい人物により、ラナの持つ杖の正体が判明した。
 名は、聖杖バルキリー。聖者ブラギの末裔のみが扱えると言われる、十二ある聖武具のうちのひとつである。死者を生き返らせるという奇跡を起こす杖と言われているが、実際それを見た者は誰ひとりとしていない。それは杖自身も万能というわけではなく、エーギルという生命力が尽きず死んでしまった者のみを生き返らせるからだという。
「殊に、聖武具は聖痕の持ち主しか使えませんからね」
 その言葉に、ラナは聖痕が、兄にも自分にも現れていなかったことを思い出す。それゆえ母は息子に杖を教えず、母方の家系に則って弓を習うように言ったのだろう。
 けれどそれならば、何故母は自分にこの杖を託したのだろうかとラナは思う。
 弓神ウルの家系である母が、聖痕無き者は聖武具を扱えないことを知らぬはずはなかった。どうせ使えない杖ならば、父の形見なのだから母が大事に持っていればいいのにと、ラナはティルナノグの方角をぼんやりと眺める。
 そして、いつか父の故郷であるエッダに行けたら、この杖を奉納して手放そうとラナは思った。
 死者を生き返らせるなんて、そんなのはやはり現実に有り得ない。そして、この杖が万能でないことも気に入らなかった。生き返らせることができるという伝承は、余計な期待を抱かせる分、不可能だった時にはまた絶望も深いものになる。大体、エーギルとは何だろうか。寿命が尽きていないという意味であれば、ラナが今まで見てきた死体は誰ひとりとして天寿を全うした者などいなかった。
 けれど、命の取捨選択をしているという点で、この杖と自分は似ている。戦場ではずっと、助かる見込みのない命よりも助けられる命を優先して助けてきた。そういった類のものがエーギルだろうか。だとすればこの杖には、人命の残り数を数える意思でもあるのかと、ラナは自嘲的な笑みを浮かべた。
「ファバル、」
 傍らに横たわった、従兄に泣き腫らした眸を向ける。心の臓が停止して、もう半日は経過しただろうか。頬は曇り空のような白さで、生前の健康的な色がこんな無機質になることに驚いた。
 ぽたりと、杖を握りしめたラナの手から鮮血が滴り落ちる。ファバルを喪った瞬間から、自分は我を忘れてこの杖を振った。今まで何度振ろうとも扱えなかったそれを今更持ち出す愚かさに、喉がくつくつと鳴る。今度こそ使えるのではないだろうか、今度こそ発動するのではないだろうかと思い、手が擦り切れても尚杖を振り続けた。そんな奇跡まがいの現象を望み、けれど奇跡は身近に転がってなどいないことを知った。
「何の為なの……?」
 思えば神代の時代から存在していた杖が、今まで壊れずあることが奇特だった。いつの時代の先祖も、自分のように愛するひとを亡くす度にこの杖を使おうとして、そして発動しなかったのだろう。反魂の術という自然の摂理を逆行する奇跡を起こす代償に、バルキリーはただ一度しか使えない。きっと誰も彼も、この杖に命を拾われるに値しないと判断されたのだろう。
「どうして……どうしてよ」
 ラナは露ほども残っていない魔力を杖に結集させる。けれどそれは、無情に日の光を照り返すばかりだった。喉が叫び声をあげ、狂ったように喚き散らした。
「何が聖杖よ! どうして助けてくれないの!」
 叫びはむなしく部屋に響き、そしてやはり杖が発動することはなかった。
「お願い、生き返らせてよ! 何でもするから……生き返らせて! 私の……私の大切なひとなんだから!!」
 ファバルに縋りつき、杖を放り投げ、涙の涸れた目で尚も泣いた。
 こんな気持ちの人達を、私は見捨ててきたのだとラナは思った。助けてと懇願する誰かを、諦念の含まれた声で残酷に言ってきたのだ。
 死んでしまった人間を生き返すなど、所詮は御伽噺の中でしかないことなのだからと。





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