「ロプトウス万歳!」
黒い衣を纏った人間達が、口々に叫んだ。
暗黒神を信仰する彼らは、何世代にも渡って草一本生えない砂漠の地下、息を殺しながら迫害を逃れ生きてきた人間達である。子々孫々と受け継がれてきた悲願がようやく達成されようとしている現状に、喜びを隠し得ないのであろう。
陽の当たる場所で暮らしたい。この世での地位を得たい。裕福に生きたい。そのためには、同じ人の子を殺すことも厭わない。
そう願う者達が、暗黒神という絶対的な力に集う。
人間の生への執着。そして富への渇望。
それはいつの時代も変わらないものだと、ユリウスに宿るロプトウスは思った。
けれど、例外が居るのもまた変わらない。
「ユリウス様、ご指示を」
片膝をつき頭を垂れ、灰白色の長い髪を束ねた雷神の血を受け継ぐ娘を見て思う。
思えば哀れな娘だと。
ユリウスの記憶を共有している闇竜は、ふと過去を顧みる。
フリージの次代当主として両親に連れられ、バーハラを訪れたイシュタルは、ユリウスの前で恭しく膝を折った。
我が命をかけて、忠誠をお誓い申し上げます、と。
そして言葉通り、その日から十余年もの間、彼女は変わることなく傍に居た。
光竜ナーガの聖痕がユリアに現れ、ユリウスの廃太子が議論された時も。
暗黒竜ロプトウスが、主君の身体を支配した時も。
私は、ユリウス様の家臣です。
そう微笑みながら、主君を否定しようとする者を彼女は屠ってきた。
肉親を喪い、可愛がっていた従妹と対立し、悲しみに顔を歪めながらも子ども狩りを行い、結果民心が離れ、暗黒教信者以外の味方が少なくなったとしても、彼女はいつも変わらない笑顔で微笑むのだ。
私は此処に居たいのです、と。
頬を煤だらけにし、右手を鮮血で彩り、大きな丸い眸に涙を堪え、彼女は笑う。
笑顔の裏に悲しみと嘆きをひたすらに隠し、完璧に笑ってみせる。
人に干渉しない竜族であるロプトウスは、一人の穢れない魂を持つ少女を前に微かに胸を痛めた。
それは、この意識の奥にある依り代が彼女を想う残滓かもしれないけれど。
思うほどに哀れな娘だと。
そっと右手を伸ばし、彼女の柔らかな頬に触れた。
「ユリウス様?」
あたたかい肌の感触に、自身の手の冷たさを思い知らされる。
邪悪な竜として忌避され続け、人の身体を借り人の中に生きることがあったとしても、触れたいなどとは思ったこともなかったのに。
「もういい、イシュタル」
「え?」
さっと、少女の顔が青ざめる。この姿で言われるのは、やはり衝撃が大きいのだろう。
「そなたの愛したユリウスは、もう戻ってはこない。ならば、此処に居ることを己に課す必要もまたあるまい。今まで苦労をかけたな」
「ユリウス様」
イシュタルがゆるりと首を振る。冷たい手をしっかりと握りしめ、震える声で呟いた。
「私が、お邪魔になったのですか? だから、もう必要ないと……」
「違う、そうではない。ただ、そなたが幼い頃に忠誠を誓ったユリウスはもう此処にはいないと言っているのだ」
ふらりと少女の視線が泳ぎ、大きく息を吐き出した。
「そんなこと、今更です」
丸い眸が弧を描き、少女は美しい顔を綻ばせる。
幼い頃ははじけるような笑顔を見せてくれた彼女は、何処か淋しそうな、けれど満ち足りた笑顔を見せることが多い。それが何を意味するのか、人と関わりを持たなかった闇竜には知る由もなかった。
「でも、あなたもユリウス様でしょう?」
「何、を……」
「だって、覚えて下さっているではありませんか」
そろりと、イシュタルの腕が背に回る。抱きすくめられ、そして耳元で囁かれる。
「私があなたに忠誠を誓ったことを、覚えて下さっているではありませんか」
「……いや、それは」
「ユリウス様」
続けようとした言葉を、語調の強いイシュタルの声が遮る。泣いているのだろうか、か細い吐息で髪が揺れるのを感じた。
「久しぶりに、林檎を取りに参りましょうか。そろそろ熟れる時期ですから」
「…………」
「一緒によく参りましたよね? こっそり脱け出して」
「ヴェルトマーの、農園か」
「えぇ、どちらが大きいのを取れるか競争するんですけれど、私いつも負けてばかりで」
「それは、わざと負けてくれていたんだろう? それに気づいて何日か、口をきかずにいた」
「ふふ、そんなこともありましたね」
それは自身が体験したことではない。けれど彼女と話していると、本当に昔話をしているような心地になってくる。依り代の記憶を共有しただけでなく、感情まで正確に共有しているのかもしれない。けれど、何故かそうは思いたくなかった。
腕の戒めが解け、イシュタルが笑顔を見せる。頬に涙の跡は無かった。
「ユリウス様。あなたが昔のままでなくたって、あなたはユリウス様です。私の大事な、主君です」
暗黒竜、邪神、ロプトウスと永く呼ばれ続けた名より、いま目の前に居る彼女に呼ばれた名の方に親しみを感じる。この身体を依り代として数年、この少女に名を呼ばれるのが好きだったのだと今更思い至った。
先程と同じように、そっとイシュタルの頬に触れる。自身の手はまるで血が通っていないかのように冷たいけれど、彼女はとてもあたたかい。
人はこうやって生きていくものなのだと、ぼんやり思う。
あたたかい手を取り合い、お互いの温もりを分け合いながら生きていく、それが人なのだと。
たったそれだけのことに、闇竜はひどくうちのめされた。
「イシュタル、」
視界が滲み、ぼろりと涙が一筋こぼれる。少女の驚いた顔が歪んで見え、けれど次の瞬間にはとても優しい表情に変わる。
「あなたも……お泣きになられるのですね」
私は泣いたのかと、闇竜は狼狽した。泣くなんてそれではまるで。
まるで、人間のようだと。
「ユリウス様……ユリウス様」
イシュタルがそっと頬をすり寄せ、名を呼んでくれる。彼女はとてもあたたかく、人に悲しみと嘆きしかもたらさないはずの存在が救われていくような心地がした。
救済など、望んでいなかったはずなのに。
竜の中でも孤独な存在であったはずの自分は、ずっと独りであるべきだったのに。
冷えた頬と手に、じわりと熱が伝わる。あたたかい。
そう思うと、涙が次々に溢れてとまらなかった。
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