マナは、ひらけた空にはろばろと視界を巡らせる。草原を駆ける剣士の国の空は、どこまでも雄大で透っている。
きれいなそらですね、と感情のこもらない声で、マナの隣にいる少女は歌うように呟く。
二人して同じ空を見ているけれど、実際眸に映すものは違うのだろうと、マナは彼女の深い紫の眸を見て思う。
巫女とは、何を見るのだろうか。
シレジア王が解放軍へと連れてきた少女に、マナは面会した。真珠の光沢を持つ銀髪に、水晶のような紫の眸。肌は白磁のようにどこまでも白く、手足は作り物のように細く、顔の造作も精緻でまるで人形のようだ。
名は、ユリアというらしい。氏素性は不明だがシレジア王の養女ということなので、ほぼ王族と同じ身分であろう。とは言え、先の戦で罪人にされた王侯貴族の子女が主な戦力となっている解放軍では、平民出身のマナは身の置きどころがなく、足は自然とその記憶喪失の少女のところへ向いた。
彼女は口数が少なく、表情も乏しかった。けれど、冷たい印象は受けない。人と接したことがあまり無かったため、何をどう話したら良いのかわからないと、ユリアは申し訳なさそうに言っていた。そんな不器用で正直なところが、マナは大好きだった。
ユリアは、不思議な少女だった。
彼女には他人に見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。それは何かと問えば、私にも分かりませんと、困ったように笑いながら答えられた。御伽噺で聞いた妖精や精霊が、ユリアには見えるのだろうか。彼女自身も人ではないそれらの種族のようにも見えるので、マナはさして驚かなかった。
ユリアは瞬きをすると音がするほどに長い睫毛を伏せ、マナさんは気味が悪いと仰られないのですねと言った。少なからずこの能力は、彼女の人生を曇らせてきたのだろうとマナは容易に予測がついた。
そして、それを目の当たりにしたのは、それからすぐ後のことだった。
野営テントの一角に、人が集まっていた。ユリアは、ラナやラクチェと共に談笑しているようだった。あの二人は身分など関係ないと、マナを初めとする下々の者にも親しく声をかけるのであるが、それこそが王族貴族の優越感だということにあの者達は気づいていない。マナとしてはいっそ、オイフェやシャナンのように初めから不遜な態度を取られる方がまだ良かった。
その時不意に、ユリアの周囲にある空気が変わったのだ。
「下がれ、人の子よ」
地の底から響くような低い声が、ユリアの口を通して流れる。彼女の体から黄金色の光が立ち昇り、辺りを昼にように明るく染めた。あれが神気というのだろうか。遠くからその様子を眺めていたマナは、ユリアの纏うあまりの気高さに腰を抜かした。
「汝らの歩む道は、長く険しい。今此処に居る者の半数以上が、次の季節までも生きていまい。そして戦争が終わった後も、長く苦しい復興の時代が待っているであろう。汝らにはそれに耐えうる覚悟があるや否や」
ユリアの体を借りた神は、次々に未来を述べていく。このままでは汝は死の砂漠に骸をさらす。汝は敵に捕えられ生きながら責め苦を味わわねばならぬ。汝の探し求める妻子はとうに死んでおる。絶望的なことばかりを述べ、宣告された者達は泣き叫び、恐れ慄いて少女に罵倒の言葉を浴びせ、悪魔の手先だと石を投げつける。ラナとラクチェは、その場からおろおろと去っていった。人を呼びに行ったのだろうか。
「皆、静まれ」
騒ぎを聞きつけたのであろう、空色の髪をなびかせた解放軍の盟主が現れる。そなたが我の血をひく者かとユリアを通して何かが言う。盟主セリスは眉ひとつ動かすことなく、そのようですねと微笑み返す。
「汝、罪深き運命を背負っておるな。血を流し屍を踏み越え、数多の命を犠牲にして汝は生きておる」
セリスは全く表情を変えずに、ただ眸だけを伏せた。
「仰せのとおりですよ」
「今後も、屍の数は増えるばかりであろう。いつか汝は、その重圧に耐えかねて死を希うやもしれん。しかし、死ぬことは許されん。生きろ、我が裔よ」
その言葉に、セリスは片膝をつき頭を深く下げる。
「汝の罪は、それこそ数えきれぬ。世を崩し、権力者を殺し、民衆を混乱に巻き込み、許されぬ存在を愛するであろう。だが、その報いは全て愛しき者が背負う。汝が心より愛する者がな」
セリスは頭を上げ、ユリアを見上げる。その眼差しが、心なしか熱を帯びているようにマナには見えた。
「あなたが依代とするその娘が、私の報いを受けると仰るのですか、我が祖よ」
「汝が別の人間を愛すれば、この娘は救われるかもしれんがな」
それだけ言い残すと、ユリアの体から光が消え、意識を失った彼女は崩れ落ちた。
ユリアを診てくれないか、とセリスに言われたマナは、杖を背負って寝台に向かう。けれど体調に異常はなく、深い眠りに彼女は落ちていた。
さっきのあれは誰だったのでしょうかとマナが問うと、セリスは竜だよと言った。何でもないというふうにさらりと言われたので、マナは反応するまでに少し時間を要した。
「竜、と言うと……」
「きっと、光竜だろう。私がひいている母方の血、バーハラ王家に連なる祖先だよ」
偉大なる光竜ナーガ。暗黒神の呪いを無効化し、この世に光をもたらした神代の救世主である。
「それが、ユリア様に……」
「ユリアは巫女だからね。別に不思議ではないだろう」
そう。今まで見てきた彼女の能力からすれば、不思議ではない。けれど、竜族は人の世界に干渉しないと言われている。光竜は、いったい何を伝えに来たのであろう。
かたり、とセリス様の肩が震える。お寒いのですか、と問えば、怖いと答えられる。
「人の命を奪う覚悟も、犠牲にする覚悟も、恨まれる覚悟もできている。けれど……ユリアを失うのだけは怖いんだ」
ちくりと胸の奥が痛み、けれどそんな素振りは少しも見せずにマナは頷く。
もう誰を失うのも怖くなどないと、幼い彼は言ったことがある。
歳に似合わない冷たい眸に、マナは背筋の凍る思いがした。同時に、このやさしい彼にこんな表情をさせる世の中を憎んだ。
そのひとが、誰かを大切に思ってくれている。
それが自分のことではなくても、マナは嬉しかった。
ユリアがきっと、このひとに笑顔を取り戻してくれる。
あたたかい光の中、輝くように笑っていた頃のように、ユリアが彼を幸せにしてくれる。
震える肩を、マナはそっと抱きしめた。身分不相応な片恋など、報われることは望んでいない。けれどユリアが目覚めるまでくらい、彼女の代わりをしていても罰は当たらないと思う。
幼い頃から、ずっと見ていた。彼がどのような覚悟をして、どれだけの努力をして、どれほどの犠牲を払って今此処に居るのか、ずっとずっと見ていた。そして同じ時間、このひとを好きでいた。
「セリス様、私は……」
マナはセリスの頭を優しく撫で、できるだけ晴れやかな顔で微笑む。
本当はあなたの隣に居たかった、なんて言えるはずもない。この想いは、報われるべくもない不毛な想いなのだ。
それでも、後悔したことはない。このひとを好きになれて、このひとの役に少しでも立てて、本当に良かった。
「あなたに大切なひとができたことが、とても嬉しいです。だから……」
光竜の言ったことが運命でも、たとえ変えられないものでも、やっとできた大事な存在を失わないで欲しい。それが、私でなくても。
「ユリアを、守ってあげて下さいね」
セリスはそっと頷き、マナには敵わないと苦笑した後、少し泣いた。
巫女とは、何を見るのだろうか。
「ユリア」
はい、と抑揚の無い返事が返ってくる。素直に、疑問を訊いてみた。
「何が見えるの?」
ユリアの紫色の眸がぱちりと大きく瞬き、咲きかけた花のような笑顔を見せる。
「未来が、見えます」
ユリアはおもむろに私の手を取る。
「マナさんの、幸せが」
「本当に?」
その言葉に、ユリアは冗談です、と笑う。最近彼女は、笑顔が多くなったように思う。黙っていても綺麗な顔は、笑うととても愛らしい。
その笑顔はどことなく、敬愛する盟主に似ていた。
彼女に嫉妬しないのは、やはり私が彼女のことを大好きだからだろうか。
作り物のような白磁の手は、触れると柔らかく、あたたかかった。