夜の帳が下りた明かりの無い部屋は、文目も分かぬ闇。
 今日は月も星も出ていない。何も、何も見えない。
 目の前にいるひとの姿も、まるでそこにいないかのよう。
 けれど、視覚が閉ざされているだけ他の感覚が研ぎ澄まされる。
 涙を流す音や、触れられている手の温もりや、窓から入る風の匂い。
 苦しげに吐き出したそのひとの息が、私の睫毛を揺らす。
「陛下」
 そっと、両手を伸ばしてそのひとの頬を挟む。濡れた頬に添えられた私の手を、ぽろぽろと雫が落ちていった。
 このひとがこんなに泣くのは、いつ以来だろう。出会った頃から王位につくまで、このひとは幾たびも泣いていた。人前ではけして泣かず、私と二人きりの時だけ、子どものようによく泣いた。奪った命の重責と、無力な民衆への謝罪と、守れなかった自分の部下にその涙を捧げていた。
泣かないでと言うことはできない。私が居ても居なくても、彼は涙を流す。
 このひとの心を満たしている悲しみは、きっと余人には理解できないのだろう。私だって、正確には分からない。私は、このひとのようにやさしくはない。
 いつだって、彼が泣くのは他人のためだった。自分の為に泣いてはいけない、何故なら自分は罪深い存在だからと、以前笑いながら言っていたことがある。
 
 ユリア、僕が生きてきた20年足らずの間、いったい何人の人間が僕の所為で死んだのだろうね。

 あるものは、飢えずにすむ世の中を夢見て。
 あるものは、たいせつなひとと共に生きられる世を望んで。
 英雄シグルドの息子がきっと世の中を変えてくれると、このひとを守って死んでいった人達は信じていた。その人々の血にまみれ、屍で築かれた道を踏みしめ、このひとは生き延びてきたのだ。泣くことも、死ぬことも許されず、人々がこのひとに託した理想を実現させようと剣を振るってきた。
 やさしいひとだ。とてもやさしくて、やさしいが故に弱く、もろい。
 それは悪いことではないのだけれど、指導者に向いているとはお世辞にも言えない。
 張りつめた糸のようなこのひとは、力を込めると切れてしまいそうに繊細だった。
 咲き終えた花が枯れ落ちるのが自明のように、このままではいつか壊れてしまうと、私は殆ど確信めいたものを感じた。
 私達の、母様のように。
 闇に呑まれた息子に殺された母のように、このひともいつか、内部からぼろぼろと壊れていってしまいそうに見えた。
 本当にこのひとは、何から何まで母様に似ている。
 私も似ているとよく言われたけれど、一番似ているのはやはりこのひとだ。顔立ちも、やさしいところも、雰囲気すらも。
「陛下」
 涙のとまらないこのひとの腕に抱かれながら、懐かしい温もりに昔を思い出す。
 このひとに初めて会ったのは、花が美しい季節だった。
 蒼穹のような髪と、深海のような眸をしたこのひとに、私は一目で惹かれた。
 このひとも、私を愛していると告げてくれた。あたたかい腕に抱きしめられ、耳元で囁かれたその言葉を、私は終生忘れないだろう。
 夢のように幸せだったけれど、夢はいつか醒めるものだ。私達が父の違う兄妹だと判明した時、愛しているという、その言葉の意味もまた変わった。
 けれど、そのことを悲しいとは思わなかった。むしろ嬉しかったのだ。
 父様も、母様も、双子の兄もみんないなくなってしまったけれど、私はひとりぼっちではない。半分血のつながった兄である、陛下が居て下さるのだから。
「ユリア」
「はい」
「……あの時のことを、覚えている?」
 あの時と言われて、真っ先に思い浮かんだのはやはりあの時のことだ。
 私の双子の兄で、このひとの異父弟であるユリウスを殺す前日のこと。
 光竜の力を宿した私は、このひとに言われた。
 兄殺しをさせてしまう自分を、私の父を殺した自分を、どうか許してくれと。
 私は、私の父の血に濡れた聖剣を持つこのひとに言った。
 あなたのお父様を殺し、あなたからお母様を奪った父を、あなたをつらい目に合わせた片割れの兄を、どうか許して下さいと。
 そして、こうも言った。
 あなたを兄と知らず愛してしまった、愚かな妹を許さないで下さいと。
「覚えています」
 許して欲しくなかった。私だけは、許さないで欲しかった。
 消してしまいたかった。潰して燃やしてしまいたかった。
 父の違う兄を愛してしまった私の心を、許さないで欲しかった。
「許さないでと、きみは言ったけれど」
 吐息が近づいて、そっと、額に口づけられる。
 暗闇ばかり映す目が焼けるように熱くなり、私の頬にも涙が流れる。
 泣きたくなるほどにせつなく、そして甘いこの感情。閉じ込めて、押し込めて、噛み殺してきたのに。
「僕のこの気持ちは、許されるの?」
 にいさま、と私の口から乾いた声が落ちる。戴冠式を終えてからずっと陛下と呼んでいるこのひとをにいさまと呼んだのは、一度だけだった。
 もう、名前で呼んではならない。私達は、兄妹になったのだから。
 そう思って呼んだ「にいさま」という言葉は、私の心を苦しいほどに締め付けた。
 私は、まだこのひとを愛しているのだと分かり、愕然とした。
 許されない。そんなことは許されない。
 お願いです、どうか。私を許さないでください。
 私は、許されない存在なのです。
 どうか、一分の慈悲もない決断を下してください。
 あなたのために私は。
 血と罪で塗り固められた生涯を歩んでも、構わないと思ったのです。
「私は、帝国の皇女です」
「……」
「民衆を貧苦に貶めたアルヴィス皇帝の娘で、ユリウス皇太子の妹です」
「……いやだ」
「にいさま、どうか、」
「厭だ……厭だ厭だ厭だっ!」
 駄々をこねる子どものように、彼は声を荒げる。ぼたぼたと、涙が私の顔に降りかかる。海の味を舌に感じると、ふいに胸に安堵感が広がっていく。このひとは、きっともう大丈夫なのだと感じた。
 この涙は、自分の為の涙だ。このひとはちゃんと、自分のためにも泣けるようになった。
 彼は、きっと幸せになるだろう。過去の血塗られた道を乗り越え、自分の幸せを掴む日が来るだろう。
 ほっと胸を撫で下ろし、泣きじゃくりながら私に縋りつくひとの背を優しく抱きしめる。私の顎先からも、冷たい涙が滴り落ちていた。これが、終生変わらぬ想いの証。
「セリスさま……セリスさま」
 昔のように、このひとを呼べたならどれだけ幸せだろうと、ずっと思ってきた。
「私は、たとえこの身が罪に引き裂かれようと、無間地獄の業火に永久に焼かれようと構いません」
 昔のようにただ、寄り添って、傍にいて、笑いあえたならどれだけ幸せだろう。
「どうか……幸せにおなり下さい。」
 涙の止まらないままに、私は微笑む。
 愛している。このひとを、誰よりも愛している。
 父の違う兄を、同じ母から生まれた兄を、実の父を殺した兄を、私は愛している。
 愛しているから、傍には居られない。私が居ては、いけないのだ。
「僕は、君さえ居てくれれば」
 その言葉に、聴覚を遮断する。聞いてはいけない。頷いてはいけないのだ。
「セリスさま」
 いとしげに呟くその名を残し、私はあたたかい腕からするりと抜け出た。



「旧グランベル帝国第一皇女ユリア・ヴェルトマー・ヘイム・グランベル」
 その言葉に、はいと答えて立ち上がる。両手には手錠がはめられていた。
「旧帝国皇女でありながら、光竜の正統な後継者として、先の解放戦争で現国王に力を貸し、暗黒神となった自らの兄を屠った業績、そして現国王の妹姫であるという事情を酌量し……」
 怨嗟の声が聞こえる。父や兄に土地を奪われ、田畑を焼き尽くされ、子を殺され、食べることすら満足にできなかった民の声。
 恨みを負うべきは、帝国皇家生き残りである私。決して、現国王であってはならない。
「本来ならば斬首刑であるが、国王陛下のご温情もあり、王都追放の上終身刑に処す」
 判決に簡単な礼を返し、私は城を出る。
 振り返ると、国王の執務室の窓から、いとしいひとの姿が見える。
 罪人に別れを告げることを許されない彼は、ただ悲しそうに見送っていた。
 私は、その姿に深く頭をさげる。

「この命のある限り、国の繁栄と陛下の幸福を願っております」

 あなたのために私は。
 血と罪で塗り固められた生涯を歩んでも、構わないと思ったのです。