足元の見えない夜道を、弁慶は歩く。べたりと墨を塗ったような闇の中、枯葉の潰れる音だけがざくざくと響いた。
「沙那」
 あまりに何の気配もしないので、そっと小声で探し人の名を呼んでみた。
 けれど、返ってくるのはしんとした静寂ばかり。いつもなら耳ざとく自分の声を聞きつけるのにと思うと、弁慶の焦りはますます募っていく。
 日が暮れるまでに帰ってこいと言いつけたのに、なんで帰ってこないんだ。
 そう悪態をついた瞬間、自分の行動が急に馬鹿らしく思える。
「何をやっているんだ、俺は」
 女子どもならともかく、沙那は男で武術の腕も確かだ。帰りが遅いのは、野うさぎを追いかけて道に迷ったとか、そんなくだらない理由に違いない。
 そう、何も、心配することなどないはずだ。
「沙那、どこだ!」
 そう思っても、戻ろうという気はまるで起きなかった。逸る気持ちを止められず、弁慶の足はとうとう駆け出す。

 弁慶、

 耳元に甦る、沙那の声。

 弁慶、おまえってすごいなぁ。

 何度も聞いた賛辞の声に、弁慶はくっと喉の奥で笑う。

 すごくなんかない。俺は馬鹿だよ、沙那。

 とてつもない大馬鹿だと、弁慶は自分のことを強く卑下する。
 あんなにずっと一緒に居て、いろんなことを話し合って、武術の稽古で泥だらけになって笑いあっても。

 俺は馬鹿だよ。
 何一つ、おまえのことを信じちゃいないんだから。

 出会った時、一緒に来いと誘われた手も、朗らかに笑うその声も、自分を信頼してくれる曇りのないまなざしも、何一つ信じてなどいない。
 それはいつか、すべて跡形もなく消えてしまうのだから。
 沙那王の全ては、彼が愛する誰かのためにあり、その時自分に残されるものなどひとかけらも存在しない。
 それでもいいと、それで構わないと、思っていたはずだったのに。
「沙那」
 呼びかけは、闇の中に溶けていく。叶わない願いが、声になってこぼれていくようだった。
「なんだ、弁慶?」
 背後から声がする。聞き慣れた能天気な声。
「おまえ……今まで」
 何処をほっつき歩いていた、と言う前に、弁慶の身体から力が抜ける。ほうと大きく息をついた瞬間、感情のままに沙那へと手を伸ばした。
「沙那王、今なら言い訳くらいは訊いてやるぞ」
 胸ぐらを掴み、左手をぼきりと鳴らす。殴りかかる三秒前、闇に慣れた目が沙那の笑顔を捉えた。
「ごめんごめん、いいもの持ってきたから許してくれって」
「は?」
 ふと手を緩めた弁慶の目の前に差し出されたのは一輪の花。
 ふっと甘い香りが鼻をつく。
「…百合か?」
「うん、好きだろう?」
 呆気に取られて沙那を見つめると、服や手足が泥だらけになっていることに気づく。
「おまえ、もしかしてこれを…」
「うん、取りに行ってて遅くなった。咲いたら、弁慶にあげようって決めていたんだ」
 沙那はにこにこと屈託なく笑い、喜んでくれるか? と言いたげな顔をしている。弁慶は、弛みそうになる頬を押さえてぷいと視線をそらした。
「……馬鹿。女じゃあるまいし、花なんか貰って嬉しいわけあるか」
「なんだよーせっかく取ってきたってのに」
 期待の反応が得られず、ぶうぶう文句を言う声を背に受けながら、弁慶は手の中の百合をそっと握りしめる。

 馬鹿。
 あんな昔に言ったこと、わざわざ覚えてるなよ。

 百合が好きだとは、確かに言った。あれは沙那王に出会った年だっただろうか。
 凜と白く清廉な様が、沙那に似てると思ったから。
「弁慶ー、べーんーけー、なぁ嬉しくないのか? なぁってばー」
「まったく」
 背後の声が、しゅんと小さくなる。弁慶は百合の芳香を楽しみながら、沙那の方を振り向いた。

 なぁ、沙那王。
 これはきっと、おまえが俺にくれる唯一のものになるんだろうな。
 ひとつだけでも、おまえが俺のために残してくれるものがあった。
 知ってるか?
 それだけで俺は、この命すら惜しくないほど幸せなんだ。

「ありがとう、沙那」
 沙那はきょとんとひとつ瞬きをした後、柔らかく美しい顔を綻ばせた。
 白い百合のようだった。


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