自分も傭兵だったという男が、墓前に供えた花をぐしゃりと握りつぶす。
金髪で青い眸の、彼の名は何と言っただろうか。見れば傷だらけの体躯は血まみれで、後でラナとかいう娘が悲鳴をあげて治療しようとするに違いない。肩に担がれている弓だけが神々しく輝き、持ち主の傷を癒そうとしているようだ。
「なぁ、黒騎士サンよ」
男の目は、呆然と虚空に向けられている。赤く燃えている西の空、この惨劇を残していった竜が呑気に飛んでいるのが見えた。
トラキアの竜騎士達は、戦場となった街から北へと逃げていた市民を一人残らず殺した。前線からそう報告が来たのは、もう一刻は前のことだ。
「傭兵ってのはさ、金さえ貰えりゃ誰でも殺すもんだろ」
不意にぽつりと、男が呟く。問い掛けられたのか独り言なのかは分からなかったので、黒騎士は黙ったまま腕を組み直した。
「金のためなら、俺は何でもした。汚いことなんか幾らでもやってきた」
男は墓前に項垂れて膝をつき、土を掻き毟りながら獣のように呻く。肩から弓が転がり落ち、金色の光は即座に消えた。
男が吐いた息が仄かに白い。夕刻を過ぎ、気温がそうと分かるほど急激に下降し始めている。温暖な地域でも、この季節はそれなりに寒い。
それでも、この男は動こうとしなかった。ただ蹲り、地を爪で掻き、血が滲んでも尚その行為を続けた。
「なんで、」
ぽたとふたつ、地面に円い水滴の跡ができる。泣いているのだろうかと黒騎士が思った刹那、男の肩がわなわなと痙攣しだした。
「なんで、こいつらが死ななきゃならねぇんだよ……」
黒騎士は瞬間的に、いっそ吐き気がするほどの苛立ちを覚える。しかし幸か不幸か、感情は表層に上がらない性格が故に、罵倒を吐かず飲み下した。
ひとつ呼吸を大きくすると、頭に昇った血が巡回を再開し、冷静な思考が戻ってくる。
親しい者の死に、ひとは皆愚かになるものだ。
眼前に累々と並べられた簡素な墓は、この男が養ってきた孤児達だと誰からか聞いた。彼が傭兵をしてきた理由を作った人間、つまり汚いことに手を染めてでも生かしたかった人間が死んだ。残酷に、戦争に巻き込まれて殺された。
「俺はただ、こいつらを風の吹き込まないあったかい家に住まわしてやって、腹いっぱい飯を食わせてやれたらそれで良かったんだ」
「…………」
男が守ってきたものは、この軍の盟主がやろうとしていることの前では塵芥ほどの価値しかない、小さな幸せだった。けれど黒騎士には、それを笑うことも蔑むこともできはしない。それがどれほどかけがえのない、あたたかくやさしいものか、失った黒騎士には身に沁みて理解できたからである。そういえば、もう何年母の墓参りに行っていないだろうか。
小さな世界だった。家があって母が居て、それだけなのに満ち足りていて、他に欲しいものは何ひとつ無かった。自分の人生を振り返れば、幸せという言葉を使えるのはあの数年だけだ。
アレス。
母はもう、二度と自分をそう呼んでくれることはない。
物言わぬ亡骸となり、冷たくなった母の傍らでいつまでも泣きながら、誓ったのは復讐だった。母をアグストリアから追い出した奴、父との仲を引き裂いた奴、その全てを斬って捨ててやると、独りになった自分は憎悪に燃えた。
それを愚かだと嗜めてくれる少女に出会い、従兄弟にあたる存在にも出会い、かつての憎しみは少しずつ矛先を変えていった。あの時自分が憎んだ存在は、顔も知らぬ他人でも顔を知る解放軍の盟主でもない。自分から母を奪っていった、時の流れや運命とでも呼ぶしかないような抗えない何かだった。
努めて冷静に、アレスは微動だにしない男を見る。こいつはどんな方法で、いま心を満たしているに違いないやりきれなさを昇華するのだろうか。輝く弓で竜を撃ち落とし、トラバント王の首を獲り、墓前の前で仇討ちの報告をすれば満足するのだろうか。
「おい、」
初めて声をかけた瞬間、男の名を思い出す。
「……ファバル」
ぴくりと血に染まった指先が動き、ゆるりと顔があがる。その顔は、泣いてなどいなかった。ファバルは付き合わせてすまんと呟き、力無く笑いながら立ち上がった。
彼が落ちた弓を拾い上げると、再び柔らかい光が傷を癒していく様が見える。自分の持つミストルティンは血肉を求め、扱いを間違えれば持ち主さえ喰い殺すと言われる魔剣であるのに、同じ神器でも違うものだ。
「俺はろくでもねぇな」
再び空を見上げた彼の言葉に、アレスはそっと目を瞬く。薄闇色の空を見る、彼は背を向けていて表情は分からない。
黄昏はそもそも、人の顔が見分け難いものだ。
「こいつらの数より、もっと多く……殺してきたってのにな」
表情まで気にする必要はない。きっと彼は泣いてなどいない。
もし泣いていたとしても、慰めるべきは通りすがりの自分ではなく、あの小柄な背に杖を負う少女だろう。
けれど、場に居合わせたのに無言で去るのは何となく気まずかった。
「数なんて関係ない。もっと素直に悲しんだらどうだ」
そう言い捨て、相手が振り向く前に踵を返す。慰めも同情もする必要はない。きっと彼の世界は、まだ終わってなどいない。
「アレス、」
先程から再三思い出していた少女に声をかけられる。怪我人の治療の途中なのだろう、左手にひびの入った杖を持ったままである。
「ファバルを知らない? 確かひどい怪我をしていたと思うの」
ラナは心配そうに顔を伏せる。その様を見てアレスは、心の何処かが安堵していくのを感じた。
「……向こうに居た」
示した方向へと駆けていくラナの背は、夕闇の向こうへと消えていく。
まだ、終わりはしない。
風が吹く。泣き声とそして、あたたかくやさしい声を運びながら。
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