いなくなった母は、優しいひとだった。
その腕に抱かれているだけで、あたたかくてやわらかくて、幸せだった。
そんな母が、いつも言っていたことがある。
アグストリアが占領されても、あなたはノディオン王家の姫です。
そのことを忘れずに、誇り高く生きなさい。
微笑みを絶やさない母が、その時だけは厳しい表情でナンナを見据えていた。
はい、お母様。
だからナンナも、背筋をぴんと伸ばして答えた。「ノディオンおうけのひめ」がどんなものかはよく分からなかったけれど、きっと母のように美しくて強い女性のことなのだと思った。
母は満足そうに頷くと、フィンを呼んでナンナに言った。
これからは、フィン殿をお父様と呼びなさい。
此処の王子リーフと同じように、「フィン」と呼びすてにしていた彼は、その瞬間からナンナの父になった。
はい、お母様。
ナンナはフィンをお父様と呼び、お辞儀をした。できるだけ優雅に。
さすがは、ノディオンの姫様です。
フィンはそう言って、ナンナの頭を撫でてくれた。いつものように。
けれど、いつもとは少し違っていた。それを最後に姫様ともナンナ様とも呼ばれず、ナンナとだけ呼ばれた。顔をあげると、いつになく厳しい表情をしたフィンが告げる。
私の娘になるということは、レンスターの騎士になるということだ。
その覚悟が、おまえにあるか?
かくご、とナンナは口の中で復唱した。
それは、母の言った誇り高くあるということとは違うのだろうか。
レンスターの騎士。その覚悟とはどういうものか、幼いナンナにはよく分からなかった。けれどきっと父のように、強くて凛々しくあるということなのだろう。
はい、お父様。
しっかりとそう頷くと、ナンナはフィンに両の手を握られる。
それではおまえに、騎士の誓いを授けよう。父となったフィンは、そう言った。
こうしてナンナは、母から王女の誇りを、父から騎士の覚悟を受け継いだ。
母がいなくなったのは、いつだったかはよく覚えていない。
確かなのは、ナンナがとても幼い頃だったということだけだ。
おぼろげに覚えている、風になびく長い金色の髪。そして、抱きしめてくれた優しい腕の感触。
「すぐ帰ってくるからね」と言い残してイザークへと発った母は、いつまで経っても帰っては来なかった。
ナンナは、寂しさに枕を涙で濡らし、泣き疲れた挙句眠ることが多くなった。
母がいなくなってからの日数を指折り数えては、隣で添い寝をしてくれる親のいない寒さに震えた。
お母様。
そう呟いて窓から夜空を見上げる。星の名前を教えてくれた母の声が思い出された。
ふと視界の端に、向かいの窓がほの明るく光る窓が映る。
あ、そうだ。
ナンナは枕を抱えて寝台から飛び降りた。
お父様と、一緒に寝よう。
父と呼んで慕うレンスターの騎士フィンの寝室へ、そろりと足音を忍ばせて向かう。昼間は探検のし甲斐があると走り回れる城も、夜は真っ暗で怖い所のように思えた。
廊下を半周巡ると、少し開いた扉から明かりの洩れている部屋に辿り着く。
その隙間から、そうっと中を窺う。年齢の割に大人びていたナンナは、一緒に寝て下さいと父の部屋に飛び込むのが、何となく気恥ずかしいように思えた。
隙間から、父の背が見えた。机に向かって、何か書き物をしているようだ。
「あ」
思わず声が出てしまい、慌てて口を塞ぐ。
父の寝台で、リーフがすやすやと眠っている姿が見えた。
それを見た途端、ナンナから父の部屋に入ろうという気が失せる。
くるりと踵を返し、足早に来た道を戻る。廊下にぺたぺたと足音が反響し、自分の部屋へと辿り着いた。扉を閉めると、悪いことをしたわけでもないのに耳の後ろでどくどくと激しく音が鳴った。
「……そっか、そうだ」
ナンナは布団に潜り、頭まですっぽりと毛布の中に収まる。こくこくと何度も頷いて、暗闇の中でぎゅっと身体を丸くする。
頷きながら、ナンナは繰り返し呟いた。
取っちゃだめだ。お父様は、レンスターの騎士だ。
レンスターの騎士は、王子様が一番大事なんだから。
次第に息が苦しくなり、頭を外に出す。向かいの窓の明かりは、消えていた。
もう、寒くなどなかった。
翌朝、ナンナは寝不足の目をこすりながら、リーフに挨拶をした。
「おはようございます」
スカートの裾を少しつまんで、頭を下げる。母に教えられたように、できるだけ優雅に。
すると突然、リーフが声をあげて泣き出した。
ナンナは驚いて、きょろきょろと辺りを見回す。父の姿は近くには見えない。リーフが泣き出した時は、いつも父か母が彼をあやしてくれた。けれど、今はどちらもいない。
ナンナは深呼吸をして心を落ち着かせ、母がいつもしていたようにリーフを抱きしめた。
体格がさほど違わないので、なんだか腕が回しにくい。それでも、泣き止みますようにと願いながら、優しくリーフの肩を抱いた。
ややあって、泣き声が収まる。ナンナはほっとして、リーフから離れた。
「きみは、ラケシスお母様にそっくりだね」
「え?」
ナンナがフィンを父と呼んでいたように、リーフもまた、ラケシスを母と呼んでいた。尤も、フィンはそれを快く思っていなかったとは、長じた後に聞いた話だ。
「金色の髪も、榛色の目も、仕草まで、一緒だ」
「……そう、ですか?」
自分では自覚しないうちに、真似ていた仕草が母に似てきたのだろうか。
リーフの眸に、またじわりと涙が浮かぶ。
「きみを見ていると、お母様を思い出す」
ぽろぽろと涙がこぼれ、リーフの丸い頬をつたい落ちる。
その泣き顔を見てナンナは、父から聞いたリーフの両親と姉の話を思い出した。
彼が物心などついていないほど小さい頃、トラキアの竜騎士に殺されてしまったのだと。
ナンナは慰めることも忘れて、ぼんやりとリーフを見つめる。
自分には、実の母が居た。そして、フィンが父になってくれた。
けれど彼にとっては、どちらも本当の両親ではない。母はリーフも自分と同じくらい可愛がっていたが、やはり自分と接している時間の方が長かった。フィンは、リーフの家臣である。父代わりとはいえ、越えられない主従の壁もあったのだろう。
ナンナは、この広い城でひとりぼっちになってしまうことを考えた。
それはとても、怖くて淋しいことだと思った。
リーフもきっと、そんな気持ちになったこともあるのだろう。
そっか、そうだ。ナンナは、心の中で呟いた。
このひとは、本当の家族のことを、何も覚えていないんだ。
まだほんの赤ちゃんの時に、お父様もお母様もお姉様も、亡くしてしまったんだ。
そして今、またお母様代わりのひとがいなくなったんだ。
きっとこのひとは、私なんかよりずっとずっと淋しい思いをしてきたんだ。
そう考えると、両の目がじんと熱くなった。慌てて首を振る。ナンナは、リーフの両手をぎゅっと握った。
泣いてはいけない、自分がしっかりしなければいけないと、ナンナは思った。
此処には、自分より年上なのに、自分より泣き虫で淋しがり屋の王子様が居るのだから。
「大丈夫です、もう、淋しくないですよ」
涙に濡れた手を力強く握りしめ、言った。
「これからは私が、お母様になって差し上げます。私が、ずっとあなたと一緒に居ります」
目の前には、レンスターの王子の顔があった。
濡れた飴色の目をぱちぱちと瞬き、少し俯いて小さな声で彼は言った。
「ほんとう? きみは……ナンナは、ぼくと、一緒に居てくれるの?」
リーフの肩は震えていた。どうしたのかと、ナンナは首を傾げる。
「怖いのですか?」
こくり、とリーフは頷く。すぐ帰ってくる、一緒に居る、そう言ってくれた人達がいなくなっていく恐怖を、この王子は知っていた。
ナンナは片膝をつき、リーフの両の手を額の高さに持ち上げる。
これは父から教えて貰った、騎士の誓いだった。
レンスターの騎士になる覚悟があるかと、父は問うた。
覚悟とはどういうものなのか、よく分からなかった。
けれどきっと、父のように強く凛々しくあるということなのだろう。
「ほんとうですよ。私は、嘘などつきません」
ナンナの脳裏に、母がいつも言ってくれた言葉が甦る。
アグストリアが占領されても、あなたはノディオン王家の姫です。
そのことを忘れずに、誇り高く生きなさい。
誇り高くあるということはどういうことなのか、よく分からなかった。
けれどきっと、母のような女性を誇り高いと言うのだろう。
そして母は、淋しいと泣いている子どもを、放ってなどおかない筈だった。
「ノディオン王家の名にかけて、嘘など申しません。ずっとおそばに居ります、リーフ様」
言いながらナンナは、身体が熱くなるのを感じる。
まるで自分の口を借りて、母がそう言っているような感覚になった。
大きくなっても、おとなになっても、ずっと一緒に、このひとと居る。
それはナンナにとって、途方もない誓いだった。
けれど、ナンナは殆ど直感的に思った。
その誓いを成す覚悟が、きっとレンスター騎士の強さだと。
仰ぎ見たリーフは、ようやく微笑み、ありがとうと言った。
「ナンナが僕のお母様になってくれるなら、僕がナンナのお父様になってあげる」
その言葉に、ナンナはくすくすと笑う。
「だめですよ、私の父上はフィン様ですもの」
「そっか、じゃあお兄様になる!」
満面の笑みにナンナも笑い返しながら、お兄様より弟みたい、と心の中で思った。
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