明日は、レンスターの王子キュアンの結婚式である。招待されたエーディンや他家の子女達は、その準備に余念が無い。
「おかしくないかしら」
 ふわりと、ドレスの裾が揺れる。控えめに金糸で刺繍された花模様は、どんな豪奢な飾りよりもエーディンの美貌を引き立てた。整った白い頬にさされた薄紅は、まだ初々しい丸みの残る少女のそれを華やかに彩っている。
「お綺麗ですよ、エーディン様」
 傍に控えていたミデェールがそう答えると、少女ははにかんだように微笑み、窓から見える山の稜線に視線を向けた。
「ねぇ、外に出たいわ」
 くるりと大きい鳶色の眸が、上目遣いに見上げてくる。何かをお願いする時の彼女の癖だ。昔からこんな顔をする主家の娘の我が儘を、仕方ないですねと受諾してきた。
 東の空を見ると、満月が地平から半分姿を現している。そこまで遅い時間でもないだろう。
「そうですね、折角レンスターに来たのですから、少しだけ」
 その言葉に、エーディンはきゃあと嬉しそうに声をあげ、踵の高い靴を脱ぎ捨てて飛び跳ねる。淑女としての所作を常日頃から忘れない彼女だが、ふとした拍子に歳相応の少女らしい活発さを見せる。父のリング卿は、いつまでもお転婆なことだ、と苦笑いを洩らすものの、ミデェールは彼女が草原を駈ける姿をとても好ましく思っていた。
「ミデェール、早く行きましょう」
 裸足で走る足音が、ぺたぺたと廊下に響く。明日のドレスを汚さないようにしっかり見ておかないと、と思いながら、ミデェールは後を追いかけた。


 風薫る季節の夜はあたたかい。特にレンスターは穏やかな気候なためか、感じる風もユングヴィのものより柔らかく感じる。風光明媚と謳われるこの国は、夜でも満月に照らされる景観が美しかった。
細波のような音をたてて遠くの木々が揺れると、前を歩く少女の髪が同じ色の月光を照り返してきらきらと輝いた。エーディンが足を踏み出すたびにドレスの裾はふわふわとはためき、闇に浮かび上がるその姿は白い天使のようにも見えた。
「いい国ね」
 歌うように呟いた声に、思わず見惚れていたミデェールは慌てて頷く。
「エスリンは、明日キュアン様と結婚して、此処で暮らしていくのよね」
 ゆっくりと、エーディンの唇から言葉が流れる。幼い頃からずっと一緒だった親友と離れるのが淋しいのだろうと、ミデェールは彼女の気持ちを慮った。
「…………」
 エーディンが何か言ったような気がしたが、突如吹いた強風に掻き消されて耳には届かなかった。何か仰いましたかと問うと、彼女はくるりと振り返り、泣き出しそうに歪んだ顔を見せた。
「羨ましいと言ったのよ」
 よく意味がわからず、ミデェールは押し黙ったまま瞬きを繰り返した。その所作の意味を理解しているエーディンは、ごめんなさいねと優しい笑顔を作った。
「いいの、分からなくて当たり前よ。どうせ私はいずれ、」
 ふつり、と言葉が切れる。桜色の唇がわななき、ひとつ溜め息がこぼれると同時に、エーディンの眸からも涙が一筋こぼれ落ちた。
「お父様の意に染むお相手と、結婚させられるもの」
 そう言ったエーディンはこの上なく悲しげな表情をしていて、ミデェールは狼狽した。最近は特に感情の起伏が激しく、難しい年頃になられたと苦悩していたのだが、いきなり泣き出すということはなかった。
「どなたか、想いを寄せていられるお相手がいらっしゃるのですか?」
 そう訊ねると、自分でも驚くほど胸が苦しくなるのが分かった。身分違いの大それた感情など抱くつもりはなかったのだが、自覚の無いうちにこの少女への想いは積もっていたようだと、ミデェールは冷静に心の内を分析した。
 けれど、気づいてしまえば簡単なものだ。あとは、心の奥底に閉じ込めて粉々に砕いてしまえばいいだけなのだから。
 どうせ叶わぬ想いなら、ずっと持ち続けていても苦しいだけだ。年月がかかるかもしれないが、彼女が誰かの物になる前には騎士の忠誠と敬愛の情へと昇華できるだろう。
「別に、いないわ」
 ぷいと視線を逸らして背を向ける。それが嘘をつく時の彼女の癖だと、ミデェールは知っている。言うにはまだ気恥ずかしいのだろうと、こっそり苦笑した。
「では、そんなお相手がお出来になられましたら、私めにご相談下さい」
 エーディンが、ゆっくりとこちらを向く。眸のふちから涙が盛り上がり、見る間にぼろぼろと彼女の頬を落ちる。どうして泣くのか分からず、何度も目を瞬くミデェールの襟元を、エーディンはぐいと掴んで引き寄せた。
「……どうして?」
 普段は柔らかい声音が、有無を言わさぬ響きを含んでいる。ミデェールはますます慌てた。
「あ、えぇと……お父上に、その方との縁組みを成されるよう、お願い致しますから」
 言い終わるか終わらないかのうちに、軽い音が鼓膜に響き、左頬に痛みがはしる。ミデェールは咄嗟に、張られた自分の頬よりもエーディンが右手を痛めていないか心配した。
 痛くありませんかと差し出した手は払われ、涙の止まらない目で睨まれる。
「ばか」
 ごしごしと両目の涙を手で拭うと、エーディンはくるりと踵を返して去って行く。追いつけないわけではないけれど、その後姿は追ってはならないと長年の経験で知っている。
 大方、これから部屋に閉じこもって気が済むまで泣くのだろう。半刻ほどしたら、腫れた目を冷やす氷水を持って行かなければならないなとミデェールは思った。
 張られた頬がじんじんと熱を持って痛い。ついでにこの頬もきちんと冷やそう。普段なら気にしないのだが、明日になってもまだ赤く腫れていたら、きっとあの優しい姫は幾度も謝ってまた泣いてしまうだろうから。
 ゆっくりとエーディンの後を追いながら、彼女が泣いた理由をミデェールは考え出した。
 それが分かったらきっと仲直りができるだろうと、満月を見上げながら思った。


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