昨晩中降っていた雪がやみ、晴れた空は青く澄んでいる。季節の所為でさほど熱も感じない陽光は、しかし柔らかく大地を照らし辺り一面を白く輝かせた。
綺麗な国だ。シルヴィアは、慣れない寒さに身を竦ませながら思う。
ほとんどの季節を氷と深雪に覆われた、北の独立国家シレジア。今の季節、何処を見ても白く積もっている雪は、確かにこの国の厳しい寒さを思わせる。
けれど、晴れた日に見るこの景観は何と美しいのだろう。この国で、あの放蕩王子と天馬騎士は育ってきたのかと、今更ながら劣等感のようなものを感じた。
「こんな綺麗な国だもの」
あの天馬騎士の少女が、穢れを知らず純粋なのも仕方ない。きっとこの国の人は、綺麗なものをたくさん見て生きてきて、覚える感情もまた綺麗なものでしかないのではないか。
いつもなら思わない感傷的な気分に、シルヴィアはふと溜め息をつく。吐息が白く凍って浮かび上がった。
「今頃、泣いてたりして」
先程は少し言い過ぎただろうかと、シルヴィアは口を尖らせる。芸達者な自負と共に、様々な人間をあしらいながら生きてきた自分は口もかなり達者だと自覚している。普段ならあんなふうに怒鳴り返すこともなく、厭味のひとつやふたつ言い返せる筈だった。
『シレジア王妃になる人は、ラーナ様のように気品がなくてはね……』
穢れを知らない純粋な天馬騎士の少女は、けれど悪気は無かったに違いない。恋敵に対する、精一杯の反抗のつもりだったのだろう。
痛いところを突かれたと、シルヴィアは虚勢を張る相手もいないのに力なく笑ってみせた。別に王妃になどなるつもりはないけれど、レヴィンと一緒に居たいというのはつまりそういう意味になる。
レヴィンがこの国の王子であると知ったのは、ほんのつい最近のことだ。身分の差に敏感な公子や公女は明らかに戸惑い、彼と普段から屈託なく酒を酌み交わしていた騎士達は急によそよそしくなった。俺は変わらないのに、肩書きなんてくだらねぇと、レヴィンは唯一態度を変えようとしないシルヴィアにぼやいていた。
肩書きなんて何程のものだろうかと、シルヴィアは思う。不遜だと言われようと、自身の芸ひとつで生きてきた自分は、肩書きなどというものに頼ったことなど一度たりとてない。
それに、レヴィンがこの国の王子であったとして、それが何か特殊なことだろうか。一座と共に様々な場所を訪れたシルヴィアは、堕落した金持ちも貧しい賢者も見てきた。家柄をひけらかして威張る人間と、無名の家に生まれてもこつこつ努力をして周囲に慕われている人間、どちらが素晴らしいかは明白だった。偶々生まれた家柄の違いだけで、人間に差ができるはずもあるまい。かの放蕩王子だって、吟遊詩人だと本人が名乗れば誰も王子だとは見抜けなかったではないか。
だから言った。くだらないわよね、と。
それは同意を示したばかりではなく、レヴィンに対する婉曲な厭味だった。
でもあんたも、くだらないものに縛られてるわよね。
その言葉を言えば、彼が苦しむのは目に見えていたので言わなかった。けれど、実際そういうことなのだ。
彼は、吟遊詩人であるよりも、この国の王子であることを望んでいる。くだらないと嘯きながら、そのくだらないものを何より大事にしている。
それを馬鹿げたことだとは思わない。この綺麗な国で生まれ、そして育った彼が、大事なものを素直に大事と言えないことにはそれなりの理由があるのだろう。
「気品、か」
自分には縁遠いものだ。そんなものは、裕福な暮らしをしている人達が携えていればいい。明日の食の心配をせずとも良い、温かい家庭を持つ人達が備えていればいい。生きていくだけで精一杯の自分が、そんなものを持ち合わせているわけがない。
そう思っているのに、天馬騎士の少女の言葉に過敏に反応したのは他でもない。
羨ましかったのだ。
裕福な暮らしや、温かい家庭を当たり前のように持っている人達が。
今の自分の在り様に不満はない。選択肢など与えられなかった人生だったけれど、それでも不平を言うにはあまりに恵まれている人生だと思う。踊りという天職にも出会え、何の所縁もないのに軍内に居させて貰い、寝食に困る暮らしはしていない。
けれどふと、気づくことがある。此処に自分の居場所はないのだと。
この軍に所属している人々は、皆帰る所がある。故郷がある。戦争が終われば、この人達は自分の国へと帰ってしまうのだろう。そして、また自分は一人に戻るのだとシルヴィアは思う。
だから、レヴィンと一緒に居た。吟遊詩人の彼なら、きっと自分と同じように身寄りがなく、戦争が終わってもずっと旅をしていくのだろうと思っていた。
勝手に、そう思い込んでいたのだ。彼のことをよく知りもしないで、勝手に彼の存在を拠り所にしていた。
彼にも、故郷はあったのに。
「情けない」
拠り所なんて言葉は、自分に似合わない。
一座を抜けた時から決めていたはずだ。一人で生きて、そして一人のまま死のうと。
淋しくないのかと、吟遊詩人だった頃の放蕩王子は言った。
そう思うならあんたが傍に居てよという発言は、聞き流されてしまったけれど。
淋しくないと言えば嘘になる。けれど、構わない。
「あたしには、これがあるもの」
雪の上で跳躍し、冷気を切るように手足をぴんと伸ばす。そのまま、風を描くように柔らかく指をしならせ、着地と共にまるで重力を感じさせない軽やかさでふわりと回って見せた。
周囲がざわつき、村人達が一斉に足を止めて続きを促すような目をしている。その中から、一人の男性がこちらへ歩み寄ってきた。
「あんた、踊り子かい?」
笑顔を貼り付けて頷くと、男は弾んだ声で言った。
「よかったら、わしらの為に踊っては下さらんか? こんなご時世じゃ娯楽も無くてな」
「ええ……私なんかの踊りで、よかったら」
長らく踊りを生業としてきたが、そう言えば請われて踊るのは初めてではないだろうか。それなら尚更、期待に応えねばとシルヴィアは気合いを入れて大きく手を振り上げる。
二回、三回と続けて跳躍し、柔軟性を活かして手足を速く激しく動かす。荒々しい踊りを瞬時止め、普段は踊りの最中に唄わない唄をシルヴィアは唄い出す。
「この地の冬は厳しく、時には吹雪が襲い、雪に閉ざされてしまうけれど、」
続けて腕を開き、ゆるりと回る。聞き覚えのある笛の音が、聴こえた。
それは、かの吟遊詩人が一番好きな曲だと聴かせてくれたものだった。静かでもの悲しく、けれど柔らかな優しさを含んだ曲は、一たび聴いただけで自分もすっかり気に入ったものだ。
シルヴィアは頬に笑みさえ湛えながら、ゆったりと洗練された動きを取り入れて踊った。
「やがて来る春のあたたかさは、とても優しいものでしょう
冬の厳しさを知る人は、春の優しさもよく知っています」
片足を高く上げ、くるくると連続して回る。軸はびくとも揺らがず、完璧な円を描いて見せた。
「だから今は、待つ時なのです
寒い季節を、耐え忍ぶ時なのです
やがて、あたたかい春は必ずやってきます
優しい風の導き手と共に」
前後に開脚し、腕を伸ばし、背を後ろに伸ばした足にぴったりとつけ、踊りを終える。
起き上がり礼をすると、割れるような拍手が観客から湧き起こった。
踊りを請うた男性は、顔を興奮で紅潮させてしきりに手を叩いている。
「なんて素晴らしい踊りだ! ありがとう、もう一度頑張ろうという気になったよ!」
「楽しんで頂けましたのなら、幸いです」
お礼だと、村に代々伝わってきたという剣を持たされた。そんな大事なものを受け取るわけにはいかないと固辞したのだが、村人全員から是非にと言われては持ち帰らないわけにもいかない。
それに正直、戦場に出る機会があるからには剣を所持していた方が何かと都合が良い。自分の剣の腕など大したものではないが、身を守る場合にはあると無いでは大違いである。
「ところで、それで隠れているつもり? 放蕩王子」
人がいなくなったのを見計らってから、じろりと木の上を睨む。葉と同じ色の髪が揺れ、先程の笛を吹いていた人物が枝に腰掛けていた。
「別に隠れているつもりはなかったんだけどな」
そう言いながら、レヴィンは地面へと降りる。また寒そうな恰好しやがって、とマントを着せてくれた。 踊った後だから特に寒くはないのだが、この心遣いが嬉しいので素直に礼を言っておいた。
「相変わらずいい踊りだった、おまえ此処の土地が合ってるのかもな」
「何それ」
まるで植物か何かみたいな喩えだ。少し笑ってから、そうねと言った。
「踊れなくなったら、此処に住むのもいいかもしれない」
寒いけれど、綺麗な国。そこに住む、穢れを知らない純粋であたたかい人々。
この国に執着する、レヴィンの気持ちがわかるような気がした。故郷であるなら尚更、シレジアは美しく二つと得がたい場所に思えるのだろう。
「一緒に住むか?」
「…………」
聞き違えたかと思い、眉を顰めて彼の顔を見上げる。しばし黙っていても、言い直す気配はない。またいつもの冗談だろう。悪戯っぽい笑みを浮かべるこの男は、まるでいつまでも子どものようだ。
「何処に?」
「この村でもいい」
「無理よ、あんた王様になるんでしょ?」
「なるって決まったわけじゃないさ」
「それでも、あんたのお妃には気品のある人じゃないとだめだから」
こつん、と頭を軽く小突かれる。続いて、ばぁかと声がした。
「おまえのことを、ろくに知らない奴が言ったことなんて真に受けるなよ。おまえの生き方は、充分気品があると俺は思うぞ」
「……聞いていたの?」
あの天馬騎士の少女が、自分との諍いを主君である彼に報告する筈はない。きっと、口論している場にレヴィンは居合わせていたのだろう。
よく考えれば、気ままに歩いて辿り着いた村でレヴィンと出くわすなんて、偶然にしては出来過ぎている。普段なら聞き耳なんて感心しないわと言ってやりたいところだが、彼が自分を慰めてくれるために追いかけてきてくれたことを思えば、文句を言う口は閉ざされた。
「あいつ、悪い奴じゃないんだ。謝りたいって言ってたから、許してやってくれよ」
何だか泣きそうになったシルヴィアは、できるだけ早く彼から顔を背け、晴れ渡った青空を見上げる。
「そんな気にすることないのに。むしろ私が謝らなきゃ」
雪を踏みしめると、さくさくと軽い音がする。零れ落ちた涙が、凍えた頬に温かかった。
この綺麗な国で生まれ育った人は、やはり綺麗で純粋な人達ばかりだ。
まるで奇跡のように、美しい国。
できるなら、このまま美しくあって欲しいと願った。
「レヴィン」
「ん?」
「……ありがと」
風が積もった雪を空に舞い上げ、陽に反射してきらきらと輝いた。
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