地平の先まで、荒野が続いている。
このままずっとずっと歩いて行ったら、何処に辿り着くのだろう。
そう思ったギンは、当面の食糧である干し柿を抱えて気の向くままに歩いていた。
出発したのが、半日ほど前。
その時点で目に留まったのは、運がいいとしか言いようがない。
きっとあと少しでも先で見つけたら、寄り道などしなかっただろう。
たとえそれが、こんなに綺麗な金色の光で目を射抜いたとしても。
……行き倒れか。
さして珍しいものでもない。感情のこもらない目で、倒れている少女に視線を投げる。
痩せた身体にぼろ布のような着物を纏い、遠目では綺麗に見えた髪は土埃にまみれて灰色がかっている。
飢えた表情だけれど、精巧な造りをした綺麗な顔。ぼんやりと開けられた目には生気が無く、既に死んでいるのかもしれないとギンは思った。
生きていたら、これを食わせてやってもいい。
干し柿を抱えなおしながら、気まぐれにそんなことを思う。ずっとずっと幼い頃に、こんな色に塗られた仏の像を拝んだことがある。ギンはくすんだ金髪を眺めながら、覚えている現世の記憶をぼんやり思い起こしていた。
「……ぃ、た」
少女のひび割れた唇が、声を発する。まだ生きている。
ギンは少し身体を屈め、干し柿をひとつ口元に運んでやった。
「食べ」
少女の視線が、自分の方に向く。それでも、柿を歯で噛んで放すまいとしているところに、生命の在り処を感じた。
誰、と問われたので名乗る。市丸ギン、と。
「ギン……変な名前」
余計なお世話だ、と思うと同時に、当たり前だとも思う。「市丸」に居た頃、髪の色が銀色だからという理由で勝手につけられたのだ。
「市丸」は、とある地方で名の知れた盗賊団だった。物心ついた時には、既に自分の食い扶持を何とかするために盗みを働いていた。親の顔は知らない。頭領が狐に産ませた子だと、酒の席で言っていたことがある。冗談だったのか真実だったのか判明しないままに、ギンは盗みに失敗して棒打ちを受けて死んでしまったのだが。
「きみは?」
既にがつがつと柿を貪り食っている少女にも、名を問う。
「……乱菊」
適当につけられた自分の名とは違い、それはとても綺麗な名だと思った。
「ギン、何これ?」
うっかり、目の届かない所に置いておくのを忘れていた。
ギンは慌てて、しかしそんなそぶりは全く見せず、優しく乱菊の手を取る。
「こらこら、こんな危ないもん触ったらあかんよ」
彼女の手から刀を外し、それを背に隠す。すると乱菊は、怪訝そうに自分を見た。
「刀なんて、そうそう落ちているわけないのに……盗ってきたの?」
「ちゃうよ。朝起きたら何か知らんけどあったんやって」
「……もっとましな嘘ついたら?」
少し不機嫌そうな顔をして、乱菊はそれ以上興味がないという風にぷいと視線を逸らした。
まぁ、ほんまやとは思って貰われへんやろうな。ギンはそうひとりごちる。
けれど、実際そうなのだから他に言いようはない。それとも、この事実をもう少し真実味のある嘘に置き換えて言ったらよかっただろうか。
幾つか言い訳を考えてみたが、どれも追求されれば答えに窮しそうなので、やはり言うのはやめた。
「ほんまに刀が現れるなんて、信じてへんかったけどなぁ」
数日前、いつものように大人達を殴り殺した。
大人相手といえど、現世に居た頃から実戦経験の多いギンは負け知らずだった。けれど、いくら喧嘩の腕が立っても、狩猟の腕や道具の扱い、採取の行動範囲などは大人達よりも劣る。大人達を襲い、食糧を手に入れていかなければ、乱菊と子ども二人だけで生きていけるわけもない。自然の恵みに頼れるほど、このあたりは恵まれた土地ではなかった。
そんないつもの凄惨な風景の中、いつもとは違う人影が居た。
柔和な面構えの青年で、両目の前に何かをつけていた。後にそれが眼鏡という代物だと知ったが、その時はただ妙な男にしか見えなかった。けれどその妙な代物は、男の顔によく似合っていた。
「やぁ、こんにちは」
片手をあげ、その顔に相応しい優しい声で呑気に挨拶をしてくる。立派な黒い着物を纏っているその男が、この地区の人間だとは思えない。自分がさきほど奪った食糧を奪う気もないだろう。そう思い、ギンは警戒を緩めた。
「どちらさんですか?」
「僕は、藍染惣右介という者だよ。きみに用があって来た」
知り合いのはずはない。こっちに来てから、顔を覚えている人間は乱菊だけだ。それとも、死ぬ前に関わりがあった人間だろうか。
「いや、初対面さ。きみはこんな辺境の地区で霊圧を異様にたれ流すものだから、どんな子かと思って来てみたんだよ。まぁ、用事はそれだけではないんだけれどね」
よく喋る男だ。
ギンは、そっと眉を顰める。これ以上くだらないことを言うようなら、さっさとこの場を離れてしまおう。
「きみと一緒に住んでいる子も、霊力を持っているね? けれど、きみは彼女に力を使わせたことはない。どうやらとても大事にしているようだ」
「……っ」
なんだ、こいつは。
自分に会いに来たと言いながら、何故乱菊のことまで知っている。
一度緩めた警戒心を、ギンは再び張り詰めさせる。
大丈夫だ。今まで、多少なりとも霊力を持っている大人とも渡り合ってきた。こんな昼行灯のような男に、自分は負けたりしない。
ギンが霊圧を高め、臨戦体勢をとる。男が少しでも動けば、殴りかかってやるつもりだった。
その時、男の唇がにやりと歪む。
「縛道の一、塞」
男の声が耳に届いた瞬間、全身が縛られたように動かなくなる。
「鬼道……死神、か?」
「ほぅ、その歳で鬼道を知っているとはね。しかも好戦的なのに冷静だ」
ざらざら、男の足が地面を撫でる音がする。土埃が舞い上がり、男が近づいてきた。
細い目を精一杯広げ、そいつを睨んでやる。男は、嘲るように喉で笑った。
「私の下につけ、少年。おまえの望みを叶えてやる」
なんて、胡散臭い話だろう。
そもそもこの男は、自分の望みなんか知りもしないくせに。
「……厭や、って言うたら?」
「そうだね……きみの大事な子が、突然いなくなるかもしれないな」
予想通りの返答。片頬だけで笑ってみせる。
分かっていた。いつかあの少女は、自分の枷になると分かっていた。
乱菊と一緒に住むようになってから、どんなに遠くへ行ってもあの場所に帰るようになった。以前なら、気にすることなく何処まででも行けたのに。
食糧だってそうだ。ギンは、散らばった食糧を眺める。
自分ひとりなら、こんなに必要ない。あの子が居るから、食糧に限らず、何でも余分に調達してこなくてはならない。
あの子は邪魔で、手間がかかる。こんな鬼道を使わずとも、自分を縛り付ける。
けれど、どうしてだろう。
それを厭だと思ったことは、一度だってなかったのだ。
ただいまと言えば、お帰りと言ってくれる声がある。
ギン、と呼んで微笑んでくれる顔がある。
それが、むしろとても心地よいと感じていた。
一人の方が楽なのに、どうしてもあの居心地を捨てることはできなかった。
「……どうすればえぇんですか?」
男は、満足そうににたりと笑った。
優男だなんてとんでもない。こいつは、善人の皮をかぶった極悪人だ。
そう思ったギンは、いっそう強く睨みつけてやった。
男は言った。刀が現れたら、それを持って真央霊術院という所を訊ねろと。
おまえの望みを叶えてやる。そう言った男は、どこまで本気か分からない。
けれど、自分が行かなければまず間違いなく、あの男は乱菊を殺しにくる。幾度も人を殺したことのあるギンは、同種の匂いには敏感だ。そして今の自分に、あの男に対抗できる力が無いことは既に証明されている。逃げられるわけもなかった。
乱菊が、隣で寝息をたてている。赤子のように愛らしい寝顔。何も知らない無垢なこの子を、傷つけられるのはどうしても厭だった。
大切だとか守るだとか、そんな高尚なものではない。誰だって、綺麗で気に入ったものを汚されたり壊されたりするのは、いい気分ではないはずだ。この感情は、きっとそんなつまらない独占欲のようなものだと、ギンは感じていた。
それでも。こんな醜い感情で、彼女と共に居たのだとしても。
それでも、かけがえのない安らぎを、彼女は与えてくれた。
生前も死後も、得られなかったものが、今までは確かに此処にあったのだ。
「おおきに、乱菊」
眠っている彼女の髪を、そっと撫でる。手入れのされていない波打った髪は、ぱさぱさに乾いていながらも柔らかい。
その感触を、せめて忘れないようにと肌に刻み付け、刀を持って外へと出る。暗闇の中、白いものがちらちらと舞っていた。雪が降っているのだ。
寒さで風邪をひかないだろうか。そんなことが気になって、出たはずの家をちらりと振り返る。けれど、引き返すことはしない。そうしたらきっと、もう此処から離れられなくなってしまう。
「……堪忍な」
カンニン、ってなに?
いとけなく訊いた、乱菊の声が甦る。
そうか、乱菊には分からへんねんな。自分は笑ってそう返した。
あれは、いつのことだっただろう。
そう以前でもない筈なのに、彼女と過ごした時期が、ひどく遠い昔のことのように感じられる。
「さいなら、乱菊……ごめんな」
そう呟いたギンは、今度こそ振り返らず、闇の向こうへと姿を消した。
それは、夢だったのかもしれない。
ごめん、と謝るギンの声が聞こえた気がした。
「まさか、ね」
きっと夢だ。そうでなければ、あの男が私に謝るなんてことがあるはずがない。
変な夢を見たものだ。
そう思って寝返りを打つと、隣に居るはずの人物がいないことに気づく。
「ギン……?」
これまで、行き先を告げずに何処かへ行ってしまうことなんて山ほどあった。今更いなくなったからといって、私は心配などしない。
けれど、この時はあまりに状況が違いすぎた。
今まで、ギンが夜中に出て行くことなんてなかった。私が目覚めるのを待って、日が昇ってから出て行くのが常だ。偶然だなんて言わせない。それくらいには、長く一緒に居た自信がある。
「ギン……ギン!」
まろぶ勢いで、乱菊は外に飛び出す。雪が降っていた。闇に必死に目を凝らすが、何処にもあの痩せた姿は見当たらない。
「どうして……?」
ぺたん、と乱菊はその場に座り込んだ。涙が、積もりかけている雪の上に落ちて丸い跡を作る。
「あんた一体……何処に行きたいのよ」
返るはずのない問いかけが、雪の降る寒い闇夜に溶けて消えた。
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