それは、季節が夏に向かう暑い日のことだった。
 仕事を終えたセリスが執務室の椅子で伸び上がって首を回す。ぽきぽきと軽く骨が軋んだ。ここ数日、あまり身体を動かしていない。今は王座に着いているとはいえ、育ちが草原の国である彼は、太陽の下で思いきり外を走り回りたい欲求に駆られていた。
「陛下、そろそろお寝みになられませ」
 背後に控えていた女性が、優しく言葉を添える。
「お疲れでしょう? 僭越ながらわたくしが、お身体を解して差し上げますわ」
 六日ほど前から政務の補佐を務めてくれる、大臣の娘だった。ここ数日、彼女を后に迎えろと重臣達が口煩く詰め寄ってくることも疲れの一因となっていた。
 そのまま椅子の背もたれが彼女の細い腕に絡め取られ、柔らかな白い指がセリスの頤を撫でた。肩から滑り落ちる艶やかな髪は見事な黒で、媚薬のような香水の香りに包まれながら、ふと自分を育んでくれた遠いイザークの土地が思い出された。
「……きみも疲れただろう、自分の部屋に戻るといい」
「あら、女に恥をかかせる気ですの?」
 紅をさした唇がセリスの耳朶を噛み、ぞくりと背筋が痺れる。感情と裏腹に反応してしまう身体がこの上もなく厄介で、セリスは軽く舌打ちをした。
「すまないが、今日は下がってくれないか」
 彼女は一度くすりと笑い、雌豹のように身体を撓らせてセリスの唇をそっと奪う。ふわりとあたたかい他人の体温は、けれど打算の味がした。
「おやすみなさいませ、良い夢を」
 蠱惑的な微笑みを浮かべた女は踵を返し、すらりとした長い足を翻して執務室の扉を閉めた。
 セリスは長く息をつき、頭を軽くニ三度振る。少し夜風に当たろうと椅子から立ち上がって窓を開けると、階下の庭に誰か居るのが見えた。闇に目を凝らして身を乗り出し、僅かな光を照り返す銀色の髪を確認した瞬間、セリスは一もニも無く執務室を出て階段を駆け下りた。


 息を弾ませて庭へと出ると、目的の人物はセリスに気づいて微笑んだ。
「こんな遅くまでお疲れ様です、陛下」
「あ……いや」
 姿を見て飛び出してきたものの何を話していいか分からず、セリスは口篭もる。激務に追われ、もう何日会ってなかっただろうか。
「ユリアは何しているの、こんなところで」
「お散歩です。日が落ちて、涼しくなりましたから」
 見ればユリアは夏物の夜着に薄い羽織りという出で立ちで、いつになく肌を露出していることに気がついた。ゆったりとした法衣姿しか見たことがなかったセリスの目は、半袖から伸びたすんなりと細い腕や露わになった鎖骨にぴたりと留まる。
 視線を感じたのか、ユリアはもう一度にこりと笑い、「おにいさま」と言葉を紡ぐ。
「そんなに見つめられては、穴が開いてしまいます」
「え。……あ、ごめん」
 セリスが視線を外すと、ユリアの白い手が口元へと伸びてきた。細い指がそっと口元をなぞって離れると、その指先が赤く染まっているのが見える。ユリアはそれを少し見つめてちろりと舐めた。桜色の唇から垣間見えた舌が赤い汚れを取り払うと、「あぁ、口紅」と呟くユリアの声が聞こえた。
 セリスはひどく狼狽し、どう言い繕ったものかと考えを巡らせたが、予想に反してユリアはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった、血だったらどうしようかと思いました」
 一片の曇りもない笑顔を向けられ、セリスはそっと唇を噛んだ。ユリアは微笑んだ唇の角度を全く変えないままに、もう一度「よかった」と呟いた。
 それが何故かとても悲しい、とてつもなく悲しいとセリスには思えた。ユリアがもし泣いたり詰ったり、いやそんなに大袈裟な反応でなくてもいい。ただ少し眉を顰めたり口角を下げたり目を見張らせたりしてくれれば、きっとこんなに悲しい気持ちにはならなかっただろうという妙な苛立ちを覚える。
 無意識に、手が動いていた。剣をおいて数ヶ月経った手がユリアの肩を乱暴に掴む。理性の壁が下りた時には既に後悔しか残っておらず、セリスは睫毛が触れ合うほどの距離でユリアの唇を奪っていた。
 その間文字通り目の前にいる少女は何の抵抗も見せず、ただ黙ってされるがままになっていた。瞬時吸い込んだ吐息は、甘くうつくしい記憶を呼び起こす。それは何処か、故郷に帰った時のような懐かしさに似ているような気がした。
 ややあって唇を放すと、ユリアは変わらない表情で微笑んでいた。「ごめん」と呟くセリスに、彼女はゆっくりと首を振った。
「おにいさま……いえ。陛下、忘れないでください」
 ユリアはセリスの手をそっと取り、いとおしむように握りしめる。トラキアで神の福音を祈った時も、彼女は同じことをしてくれた。
「あなたには私などより、大事なものがあるということを。
 どうか、忘れないでください。どうか、間違えてしまわないように」
 強く目を閉じる。果てのない暗闇から、逃げ出してしまいたい衝動が身体を突き抜ける。先ほど感じた悲しみは澱のように心に沈み、けれどきっとユリアの方が悲しいのだと思い至って歯をくいしばった。
「どうしてきみは、いつも強いんだろう」
「あなたが居て下さるからです」
 優しい笑顔を返したユリアは、握った手を額の高さまで捧げ持ち、そしてゆっくりと唱えた。

「世界で一番愛するあなたに、神の御加護がありますように」


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