こつこつと、窓を叩く音がする。
「ん……」
目を覚ましたフィンが起き上がると、ベッドの傍に位置する窓を誰かが外から叩いているようだ。一体誰だろう。
明け方は冷え込むこの季節、まだ太陽も満足に昇っていない外気は冷たい。フィンは上着を羽織り、そっと窓に近づくなり飛び退いた。
「エ、エスリン様!?」
「良かった、起きてくれたのね」
慌てて鍵を開け、主君の妻を部屋へと招き入れる。寒かった、と鼻を赤らめて笑うエスリンを座らせ、暖炉に火を熾そうとして止められた。
「すぐ出るからいいわ。フィン、供をしてくれる?」
「あ、えぇ……キュアン様と遠乗りにでも出かけられるのですか?」
「いいえ、私一人よ。ユングヴィに行きたいの」
「ユングヴィと、言いますと……」
「えぇ、実家のシアルフィの隣にある公国よ。幼馴染みのエーディンに用事があってね。あなたは会ったことないかしら?」
フィンは首を振る。キュアンやエスリンの供をして何度かグランベルやノディオンといった国に足を運んだことはあったが、一介の騎士である自分は主君達の知人である公子や公女と話をする機会などなかった。
ユングヴィのエーディン公女といえば、噂くらいは小耳に挟んだこともある。国を越えてまで評判が届くほどの美姫らしいが、フィンは目の前に居る主君の妻以上に美しい女性を知らなかったため、いまいちどんな女性なのかは想像し難い。
「じゃあ、今日は会えるわよ」
エスリンは確信を持ってそう言い、フィンに支度を促した。
マンスター地方を抜け、砂漠を横目に見ながらグランベルに入国する。シアルフィに寄るものだと思っていたが、エスリンはあっさりと通り過ぎた。
「ご実家には寄られないのですか?」
「そうね、帰りに寄ろうかな」
そのままユングヴィ城に向かうと思いきや、到着したのは城から北西の位置にある寂れた教会だった。
「エスリン様……此処は?」
「使われなくなった教会を、エーディンが使っているのよ」
エスリンは教会の扉を開け、フィンに持たせた袋を担いで中へと入る。
追って入ったフィンは、漂う臭気に思わず顔を顰めた。
けして広いと言えない教会の中、老人や子どもが所狭しと並んでいる。その身体はどれも痩せこけ垢にまみれており、まるで貧民街に生きる浮浪者だった。
「顔が青いわよ。大丈夫、フィン?」
この臭気の中、エスリンは眉ひとつ動かさず平然としている。それは自分より身分の高い彼女が、この場に再三出入りしていたことを示していた。大丈夫ですと答えると、エスリンは申し訳なさそうに笑い、そして声を張り上げた。
「エーディン、代わるわ。少し休んで」
人ごみの中に消えていったエスリンの背を見つめていると、同じ所から金髪の女性が姿を現す。彼女は壊れかけた杖を背負い、水汲み用の桶を持っていた。
波打つ月色の髪に、大きい鳶色の眸が印象的な女性である。この人が噂に聞くエーディンという女性だろう。
「あら……あなたは?」
「申し遅れました、私はレンスターのフィンと申します。エーディン様にあらせられましてはご機嫌麗しく……」
片膝をつき、頭を垂れて挨拶をしたフィンの頭上に、控えめな笑い声が降ってきた。
「そんな堅苦しい言葉をお使いにならないで、フィン殿。此処は城ではありません。私に気を遣って頂かなくても結構ですわ。どうぞ頭をお上げになって下さいな」
ふと上目遣いに彼女を見上げる。長い髪は無造作に結われ、服も平民が着るような粗末な服である。作り物のような白い手は、細かい傷やあかぎれがたくさんあった。
「そして、此処にいらっしゃる限り元気な方は誰でも働いて頂きますの」
エーディンはにこやかに微笑みながら、持っていた桶を二つフィンに渡す。
「此処の南に川があります。そこまで行って水を汲んで来て下さいませ。あの釜がいっぱいになるまでお願いしますね。それが終わりましたら、火を熾してお湯を沸かして下さい。薪が足りない場合は裏手に積んでありますので、必要な分を割って下さいな」
要するに、女性だけでは心もとない力仕事をやって貰いたいということか。
きっとこれが、エスリンが自分を連れてきた理由なのだろう。
「……わかりました」
フィンは軍服の袖を捲り上げると、寒風が吹き荒ぶ外へと飛び出した。
全ての作業が終了したのは、日が傾きかけた頃だった。
「おかげさまで助かりましたわ」
エーディンが、白湯に生姜を入れて持ってきてくれた。ぴりりと辛く温かい湯が胃に沁み、疲れが癒されていくような気がする。
「エスリン様は、どちらに?」
「階下で皆さんの看病をしてくれています。少し休んだら私が代わりますから、その時にエスリンと一緒にお帰り下さい。遅くなってはキュアン様が心配なさいますから」
「お心遣い、痛みいります」
湯を飲みながらフィンは、疑問に思っていたことを口にした。
「あの、ところで……此処はどういった施設なのですか?」
エーディンは口に細い指をあて、まぁと呟いた。
「エスリンったら、フィン殿に何の説明もしてなかったのね。申し訳ありません、いきなり手伝えなんて、さぞ驚かれたでしょうね」
謝罪するエーディンを制すると、彼女は説明を始めた。
「此処は昔、私とエスリンが貧しい病人の看護をする為に使っていました。シアルフィもユングヴィも治安がいいので、殆どの民は平穏に暮らしていますけれど、中には不治の病を患って世間から隔離された病人や幼くして親を亡くした孤児、そして身体を悪くしても頼る家族のいない老人もいます。始めは、目についた人々を薬や包帯などで簡単に治療するだけでしたけれど、何年かのうちにここまで人が詰め掛けるようになりました。今まではエスリンと二人で急激に増えた来訪者達の看護にあたっていたのですけれど、彼女がレンスターへ嫁いでからは難しいと思っていました。それなのにわざわざ駆けつけてくれて、本当にありがたいですわ」
「何故、エーディン様が? 公国の姫ともあろうお方が……」
「だからこそです、フィン殿」
エーディンは美しい顔を窓の外へと向ける。夕日が彼女の髪を蜂蜜色に染めた。
ただ姿形が美しいというだけではない。この女性は、内側から輝くような美しさを持っているのだと、フィンは殆ど直感的に感じた。
「私は、このユングヴィを統治する一族ですもの。民の平安と幸せを守る義務があります。とは言っても、私にできることなどとても少ないですわ。けれど、それでも何かできることがあるのなら、できることからしていこうと思いましたの」
エーディン様、と幾人もの声が聞こえる。階段の下には、何人もの人々がこちらに向かって手を合わせていた。
ある者は涙を流し、ある者は嬉しそうに笑い、それぞれにエーディンへの感謝を言葉にした。ありがとうございます、ありがとうございますと繰り返し言われて、お礼などいいのですと微笑むエーディンは、明るい夕日の中、まるで女神のように見えた。
フィンは、そっと目を伏せる。幼い頃に亡くした父親を思い出した。彼がこの慈悲深い姫の半分でも民を思いやっていれば、あんなことにはならなかっただろうに。
実家は、代々レンスター王家に仕える貴族の家柄だった。けれど父は、領民に重税を課し、彼らの懇願を何一つ聞かず、贅沢にまみれて暮らした結果側近に暗殺された。現場に居合わせたフィンは、生温かい返り血を浴びながらも呆然と立ち尽くしていたが、感慨のようなものは別段湧かなかった。ろくな死に方をしないとは思っていたが、事実あまりに呆気ない最期を迎えた父を哀れんで流す涙すら無かった。
人々が口にするありがとうという言葉を聞きながら、そういえば父は誰にもこんなふうに礼を言われたことが無かったのではないかと記憶が告げる。
金銭は潤沢にあり、贅沢三昧に暮らし、何ひとつ不自由などないように見えた父は、けれどいつも家臣に当り散らしては一人で酒を呷っていた。あの頃の記憶がフィンの中で灰色に閉ざされているのは、自分自身も父も正確な意味で幸せではなかったからだろう。
人々が去って行き、エーディンがエスリンに交代を告げて帰宅を促すと、主君の妻は明らかにむくれた。
「エーディンを一人置いて帰るなんて厭よ」
「エスリン様」
ずいとフィンは距離を縮める。ただならぬ雰囲気を感じたのか、エスリンはじりじりと後ずさった。
「言うことを聞いて頂けないのでしたら、不本意ではありますが致し方ございません。実力行使も辞さない覚悟で……」
「キュ、キュアンを心配させちゃいけないわよね、またねエーディン!」
そそくさと帰り支度をするエスリンをエーディンは笑って見送り、フィンへ視線を移した。
「お構いできなくて申し訳ありません。今度はどうぞ城の方にいらして下さいませね」
「……あの、」
言葉に詰まったフィンを、鳶色の眸が不思議そうに見つめる。温かい色をしたその目は、先程の夕日のようであった。
たっぷり十秒ほど逡巡した挙句、フィンはやっとのことで言葉を搾り出す。
「休暇が頂けたら、私一人で伺っても良いですか?」
エーディンの金色に光る睫毛がぱちぱちと瞬き、そして彼女は嫣然と微笑んだ。
「ええ、歓迎致しますわ」
耳まで赤くなったフィンを見て、エスリンはこっそり微笑み、帰路にてフィンをからかい尽くしたという。
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