熊野頭領である藤原湛快は、弟の言に目を剥いた。
「……本気か、”ヒノエ”」
「はい、その名はお返しします」
 “ヒノエ”とは、次期当主に与えられる隠し名である。三年前にその名を与えた時は、無邪気な笑みを貼り付け「あとで返せと仰っても返しませんよ」と言われたというのに。
 先日生まれたばかりである湛快の赤子を腕の中であやしながら、弟は三年前と同じまるで邪気の見えない表情を返す。
「頭領の座は、この子にお継がせ下さい。僕にはもう必要ありませんから」
 赤い髪を親からそのまま受け継いだ赤子は、場違いに高い声をあげる。「人の赤子も可愛いものですね」と感想を述べる彼に、「おまえも生まれた時は可愛かったぞ」と返してやった。
 派閥争いが一気に熊野を押し包んだ数ヶ月を、湛快は苦い顔で思い出す。半ば諦めていた我が子の誕生を喜んだのも束の間、周囲はすぐさま後継者の選定のやり直しをと迫ってきた。頭領である湛快と正妻との間に男子が生まれたのなら、父の妾が生んだ腹違いの弟の継承権など奪ってしまえば良いと。
 しかし、湛快はけして首を縦に振らなかった。腹違いの弟は他に何人も居たが、一番末のまだ歳若い彼を次代の頭領に選んだのは、彼の能力を湛快自身が高く評価していたからである。ただ笑っているだけで才覚の程は大したことなどないと蔑む輩もいるが、そう言うのは彼と直接話したことのない人間のみだった。ものの数分話せば、彼がおそろしく頭の良いことが分かる。知識も幅広く、特に薬剤関係は薬師でも舌を巻くほどである。洞察力にも長け、人の心の機微を読むのが大層巧い。その子どもらしからぬ考えに驚いたことも、一度や二度ではなかった。
 そして、その並外れた才覚は人をも動かした。遂に、湛快の子を支持する派閥と弟を支持する派閥、熊野は真っ二つに別れてしまったのだ。これには頭領である湛快も頭を抱えたのだが、そこへきて弟が次期頭領の座を返すと言ってきたのである。
「まぁ、おまえがそう言うなら無理に継がせやしねぇよ。明日にでも正式に、湛増を後継ぎにすると発表するさ」
「ありがとうございます。その代わり、無心があるのですがよろしいでしょうか?」
 やはり何か裏があったかと湛快は舌打ちし、「聞くだけ聞いてやろう」と返す。
「あと八年……いえ五年、僕を熊野に置いて頂きたいのです」
「……おまえを熊野に出家もさせないまま置いておくのはほぼ不可能だ」
「僕が今日死ねばいい」
 ざわり、と熊野の神木が夜風に揺れた。まだ数えで九つの幼い目が、寒気のするほどに冷たく感じる。
 弟は懐から小刀を取り出し、伸ばした髪を首のところでぶつりと切った。
「頭領……藤原湛快。あなたは明日、後継者の正式な発表と同時に僕の葬儀を行って下さい。それで派閥も無くなるでしょう。なにしろ担ぎ上げる人物を失うのですから」
 はらはらと、弟の長い髪が風に舞い消えていく。この瞬間湛快の弟……藤原湛慶はこの世からいなくなったのだ。
 湛快は深く溜め息をついた。
「名目上はそれで通るだろうが、おまえはどうやって五年過ごす気だ。おまえの面は水軍に割れてるぞ」
「水軍には割れていようと、民には割れていない。加えて性別も偽れば、五年くらいは隠し通せるでしょう。今後、僕は熊野水軍とは一切関わりのない町娘として、熊野を離れるその日まで生きていくつもりです」
「湛慶、」
 久しぶりに呼んだ本名に、弟は瞬時目を丸くしたがいつものように柔らかく微笑んだ。
「はい、兄さん」
「おまえ……そこまでして何をする気だ」
 その問いに、弟は座を立ちおやすみなさいと言う。
 背を向け、けれど思い直したようにくるりと首を回し、顔だけこちらに向けた。
 湛快は、幼いその唇が薄く歪むのを見た。


「神殺し」


 微笑んだ弟は月明かりに照らされ、青白く光っているようだった。

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